京都のまちなか暮らしを教えてくれたおやじ、感謝の気持ち

ピンクの花を手渡す親子の手
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今更ながら、親に感謝する

梅雨入りしてから、ジメジメと鬱陶しい日が続きます。そんな中、何気なくネットを見ていると、最近よく目にするのが、父の日のプレゼントに関する広告です。

お花、酒、甚平、ポロシャツなどなど、さまざまな商品でこれでもかの如く追いかけるように広告が張り巡らされていますね。

キャンペーンですから、購買者を刈り取るように商売されます。これも致し方がないのだと思います。

そんなキャンペーンをぼんやり見つめているうちに、私はおやじに父の日に何かしたかと思い出すと、何もしていないことに気づきます。

もう7年前におやじは亡くなりましたが、回顧すると少なからず後悔の念が残ります。

男親というのは、どうも気を遣うというかちょっと煙たいというか、中学校に上がってからはあまり正面切って話したことが無いように感じています。

普段のおやじは優しい人でしたが、怒るとやはりピリッとするほど怖かったですね。血相が変わるというか、父親の威厳というかやはり怖さを感じました。

おやじに対する感覚が変わり始めたのは、30を過ぎ所帯を持ち子どもができた頃でしょうか。

人の親になるということは、それは大きな責任を背負い、子どもをまっとうな人間に育てるという最も大切な親としての役目を果たしていくことを意味していると思っています。

おやじが少しずつ老いていく姿を見ながら、親の大切さや親に感謝することが分かり始めたのもこの頃でした。

仕事や人間関係で困った際は、おやじにも相談するようになりました。やっぱり、父親なんですよね、おやじの一言には重みがあって、おおよその場合これに従っているような気がしています。

私にも受験生の息子がいますが、週に1度の電話で、大学職員だった私にいろいろと受験に臨む点についてのアドバイスを求めてきます。

どう感じ、考えているのかはわかりませんが、父の言葉に耳を傾けてくれることはやはり嬉しいものです。

高校も大学も私立に行かせてくれたこと、ふだんはそんなそぶりも全く見せませんでしたが、最も私のことを心配してくれていたのはおやじだったのではないかと、50を過ぎた今となってわかってきたように思います。
また、京都というまちに生きる、まちなかで暮らすこととはどのような意味があるのか、そっと陰から教えてくれていたようにも感じています。

一度も飲みに行くこともなく、酒を酌み交わすこともなく、やはり後悔を感じてしまいますね。

今はもう孝行をすることもできませんが、毎朝、仏壇に向かって手を合わせ、少しだけおやじと話すことにしています。

親に感謝する」、当たり前のことなのですが、これを正しく伝えられる人間になろうと思っています。

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