幕末の志士を支えた最強の刀剣は何か?剣豪たちの名刀14選(前編)
幕末の京都には憂国の志士たちが集まり、日々さまざまな戦いを繰りひろげました。
志士たちの戦いを支えたのはもちろん刀剣!
京都の狭い路地や町屋づくりの屋内での戦闘で、刀は剣士を支え続けました。
江戸時代、ここまで刀が実戦的に用いられたのは、幕末の京都しかありません。
刀の個性は剣士の個性。剣士の戦い方は愛用の刀の性格と重なります。
人が刀を選ぶのか、刀が人を選ぶのか。
剣士の個性と切っても切れない愛用の刀14振りを、それぞれの剣士の戦闘スタイルや活躍した現場と合わせて紹介します。
近藤勇(新選組局長)の「長曾根虎徹」
刀の特徴
2尺3寸5分(約71,2㎝)の長曽祢虎徹。
長曽祢虎徹(刀工名は長曽祢興里)は江戸時代前期の刀工。虎徹は、刀の斬れ味でランキングをつけた寛政9年『懐刀剣尺』で「最上大業物」とされ、絶大な人気を博した。
互の目(ぐのめ)が数珠の玉のように丸く揃って並んだ特徴的な刃文「数珠刃」でも名高い。
なお、近藤の虎徹は贋作説が有力だが、実際は初代でなく虎徹の門人で養子に入った長曽祢虎徹興正(延宝年間ごろ)の作であったという。
また源清麿との説もあり。
源清麿は江戸後期の名工で、実戦本位の古刀に学んだ作刀をおこない、刀剣復古論をとなえた水心子正秀らと共に「江戸三作」と呼ばれた。
近藤はきわめて刀剣を好み、しばしば刀について語ったという。
刀の柄も「柚の木、また樫」とこだわりがあった。
あくまで戦闘力を重視し、実戦性に劣るという大坂の剣を退けた。
流派・戦闘スタイル
天然理心流四代目として、試衛館の4代目道場主となる。
養父近藤周斎から受け継いだ天然理心流は、居合、柔術、棒術、小具足術(短刀)など取り入れた、総合的で実戦的な流派だった。
また、生死を考えず捨て身で斬り込む相打ちの姿勢を極意ともする。
近藤は、「真剣を持たせたら敵なし」と言われ、きわめて実戦向きの剣豪であった。
一方で、全身全霊で初太刀を打ち込んでくる薩摩の示現流を恐れ、薩摩の初太刀は受けるなと隊士に言うなど、新選組の絶対的リーダーとして他流派への目配りも怠らなかった。
現場
八月十八日の政変、池田屋事件、禁門の変、鳥羽伏見の戦いなど多数。
普段は新選組局長としての立場から、実際の斬り合いにはあまり立ち会わなかった。
沖田総司(新選組)の「加州清光」
刀の特徴
二尺三寸三分(約70.6㎝)の加州清光。
加州清光は室町末期から始まる刀工で、最も評価が高いのは延宝期に活動した6代目で、非人小屋に住み「非人清光」と呼ばれたことでも知られる。
なお、延宝期は、寛文時代(万治元年1658~天和3年1683)のすぐあと。
寛文新刀は反りが浅く木刀のような形状で、切っ先は小さく、斬るより突くことを重視したつくりであった。(得能一男『日本刀図鑑 令和版』光芸出版)
本人の戦闘スタイル
近藤勇の天然理心流の試衛館で頭角を現し、塾頭となった。
沖田家累代の墓碑には北辰一刀流の免許皆伝でもあるという。
新選組一番隊組長、撃剣師範。
永倉新八によると「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」。
「(沖田が竹刀をもつと)土方、井上、山南、藤堂が子供扱いされ、師匠の近藤も危なかった」と語った。
三度の突きが一度にしか見えない高速の三段突きを得意とした。
また「剣で斬るな、体で斬れ」「鞘が損じれば素手で戦え」との言葉が残っている。
沖田は池田屋事件の際に清光を使用した。
狭い屋内にて得意技の高速突きを多用したか、近藤勇の書状によれば沖田の刀の「ぼうし」(切っ先)が折れたといわれる。
現場
芹沢鴨暗殺、山南敬助の切腹介錯(この刀は大和守安定といわれる)、池田屋事件、鳥羽・伏見の戦いなど
岡田以蔵(土佐)の「肥前忠弘」
刀の特徴
坂本龍馬から預けられたという肥前忠弘。
肥前忠弘は江戸初期から始まる刀工の流れで、幕末まで八代続き、名工を輩出した。
初代忠弘は「最上大業物」、二代目も「大業物」としてその斬れ味をうたわれた。
以蔵の刀は初代だったといわれる。
なお、本間精一郎暗殺で切っ先が欠けたという。
本人の戦闘スタイル
土佐で武市半平太の道場に学ぶ。
大柄な体で筋骨にめぐまれ、「撃剣矯捷なること隼のごとし」という、隼(はやぶさ)のようなきわめて素早い動きと鋭い太刀筋で頭角をあらわした。
また麻田直義から一刀流中西派(小野派とも)。
その後、武市について江戸に出て鏡心明智流を学ぶ。
「位の桃井」と呼ばれる桃井春蔵の鏡心明智流は、高い品位を身上とし、土佐藩の藩士が多数修業した。
武市の命により、多数の暗殺を手がけ、「天誅の名人」と言われた。また勝海舟の護衛も務め、敵を斬り捨てた早業で勝を驚嘆させた。
幕末四大人斬りの一人。
現場
井上佐市郎(土佐藩で吉田東洋暗殺事件を捜査)暗殺、本間精一郎(勤王の志士。武市の勤王党と対立)暗殺、宇郷重国(志士弾圧)暗殺、四与力暗殺(京都町奉行所に属し、志士摘発)など。
ほかに、勝海舟護衛、ジョン万次郎護衛など。
永倉新八(新選組)の「播州手柄山氏繁」
刀の特徴
2尺4寸(約70㎝)の播州手柄山氏繁。播州手柄山氏繁は江戸時代の播磨国の刀工。
永倉新八の刀はその四代目、新々刀時代の作とされる。
新刀時代の反りの浅さに対し、新々刀時代の刀は反りが深く、全体的に力強さを重んじたつくりで実戦向けであった。
また手柄山という名称も武士からの人気が高かった。
なお、この刀は池田屋事件の激戦で損傷し、使用不可能となったとされる。
流派・戦闘スタイル
岡田十松三代目利章の神道無念流「撃剣館」に学び、免許皆伝。
松前藩を脱藩して剣術修行に明け暮れ、複数の流派を経験したのち、天然理心流の試衛館の食客となった。
新選組二番組隊長、撃剣師範。新選組隊士・阿部十三によれば、強さは「一に永倉、二に沖田、三に斎藤(斎藤一)」。
下段に構えて相手の剣を上へすり上げて斬り下ろす「龍飛剣」という技を得意としたという。
永倉は、池田屋事件では踏み込んだ4名のうち、沖田と藤堂が、喀血や額からの流血により相次いで戦闘不能となる中、近藤とふたりで二十数名を相手に二時間以上戦い抜いた。また鳥羽伏見の戦いでは決死隊となって突撃した。
現場
油小路事件、池田屋事件、鳥羽伏見の戦いなど多数。
(広告)土方歳三(新選組)の「和泉守兼定(会津兼定)」
刀の特徴
土方が京都で主に用いたのは、京都守護職だった会津中将、松平容保から下賜された2尺8寸(約85㎝)の11代目和泉守兼定(会津兼定)。
和泉守兼定は室町時代から美濃で活躍した刀工で、2代目兼定は、『懐宝剣尺』の増補改訂版『古今鍛冶備考』で「最上大業物」とされた。
4代目で会津に移住し、以後会津兼定と呼ばれる。
会津兼定の作風は、シンプルでバランスに富み、機能性にすぐれる。
ほかに函館戦争を戦った12代目兼定(土方歳三資料館蔵)や、堀川国広の1尺9寸5分(約59㎝)の大脇差なども所有していた。
流派・戦闘スタイル
天然理心流を修める。
総合的で実戦的な流派であった天然理心流のモットーは「臨機応変」。
土方は少年時代には粗くれ者で知られ、戦い方は、羽織で羽交い絞めしたり、砂を投げて目つぶしするなどいわゆる「喧嘩戦法」だったとされる。
また相手の喉を突く諸手突きが得意であったという。
函館戦争で使った12代目和泉守兼定は鍔のすぐ下が大きく擦り切れており、鍔寄りを力を込めて握り続けた痕跡かとも言われている。
現場
油小路事件、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争
藤堂平助(新選組)の「上総之介兼重」
刀の特徴
上総之介兼重。
上総之介兼重は江戸時代前期、新刀時代の武蔵国の刀工。師匠は和泉守兼重。
同時代の虎徹と切磋琢磨し、斬れ味にすぐれる。
藤堂が高価なこの刀を所有できたのは伊勢藩主藤堂高猷の落胤であったからとの説がある。
流派・戦闘スタイル
江戸の三大道場の一つ、千葉周作の玄武館にて北辰一刀流の中目録。
同じ北辰一刀流の伊藤甲子太郎の伊藤道場を経て、天然理心流の試衛館。
新選組八番隊組長、副長助勤。沖田・斎藤・永倉とともに新選組の四天王と呼ばれた。
150㎝余の小柄な体躯で長い刀をあやつり、戦闘の折はいつも一番に斬り込んだという。また市中見廻りでも先頭に立ち、「魁(さきがけ)先生」と呼ばれた。
伊東甲子太郎とともに新選組を脱退し、その後斬られたため、活動期間は短い。
現場
池田屋事件。
(広告)河上彦斎(熊本)の「水心子正秀」
刀の特徴
水心子正秀(すいしんしまさひで)は江戸中期、化政期の刀工。
鎌倉や南北朝時代の刀剣への復古を唱え、新々刀期(明和元年1764~慶応3年1867)をひらいた。
この新々刀期は、諸外国の船の来航など、実戦への意識が高まる中、材料に良質の玉鋼を用い、強さのある刀が主流となっている。
水心子正秀は相州伝、備前伝などを手本とし、反りが深く力強い実戦的な刀をつくった。
流派・戦闘スタイル
片手抜刀の名手。剣術は自己流と称する。
5尺(約150㎝)ほどの小柄な体躯で右足を前に出し、左膝が地につくほど後ろに伸ばして低い姿勢から右手で斬るスタイルで、確実に仕留める斬り方であったという(大坪草二郎『河上彦斎』)。
また、きわめて速いスピードの逆袈裟斬りで、一説には伯耆流居合術を学んだともされる。
激越な性格と、殺人を何とも思わない冷血さで恐れられ、睨まれたら逃げられない「ヒラクチ(まむし)の彦斎」と言われた。
幕末四大人斬りの一人。
勝海舟は彼のことを「怖くてたまらなかった」と語っている。
現場
佐久間象山暗殺、第二次長州征伐(長州側)など
以上、幕末京都の剣士たちの戦いぶりと合わせて7振りの名刀を見てきました。
刀は剣士という存在と切っても切れない密接なつながりを持っています。
刀を通して見るとそれぞれの剣士の戦闘シーンが、よりいっそうリアルに浮かび上がってくるようです。
幕末の京都に集結した剣豪たちが愛した最強の刀を紹介してゆく記事の前編。後編では薩摩、長州や土佐のあの人も登場します。
この記事を書いた人
入江 澪