千ブラ、朱雀大路をまちなかぶらりん~千丸から千本今出川へ~

平安京の中央に伸びる朱雀大路

銀ブラという言葉をお聞きになったことはおありでしょうか。

これは、銀座をブラブラ散歩する(あるいは銀座界隈をブラつく)ことで大正時代の流行語とのことです。

高級な宝飾店やブティック、寿司店が立ち並ぶなど格上のまちという印象が今なお感じられます。

今回、この「ブラ」に焦点を当て、平安京と昭和時代といったまちの風景を心に思い浮かべ、平安京のメインストリート朱雀大路と現在の千本通を重ね合わせたイメージの域をさまよいながら千丸(せんまる:千本丸太町)から千中(せんなか:千本中立売)を経て千本今出川まで(約1.3㎞、所要時間歩いて約30分)「千ブラ」してみます。

千本通が気になる

朱雀はどこへいった?

風水でいう四神相応の地として京都に平安京が置かれたのですが、朱雀は京(みやこ)の南を司る朱の鳥を意味します。

平安京のメインストリートをなぜ朱雀大路とされたのかは不明ですが、京の入り口羅城門(南方位)を起点に真っ直ぐ北へ伸びる大路(朱雀大路は道幅84mとのこと)から視界に大きく広がる京(みやこ)の風景からこの門が重要な地点であるとして、羅城門に通じる大路を朱雀と名付けたのではないかとも考えています。

大内裏の朱雀門、現在の二条駅あたりが該当するのですが、この界隈を中心に今も学校の名前や町名に朱雀が生きています。

いつの頃から朱雀大路が千本通となったのでしょうか?

平安京は、西の地域、つまり右京が湿地帯で早くに廃れてしまい、まちの主体が東へ東へと移る中、朱雀大路が平安京の西の端と化していきました。

かつてのこと、おやじが千丸より西は戦時中、畑やったという言葉と符合する点があり、平安時代も初期の段階で「朱雀」という名は廃れていったのではないでしょうか。

何が千本あるのか?

これは1000本もあった、1000本は大げさだとしても何かが多く存在していたということで、通説的に語られているのが卒塔婆です。他にも千本の桜が植えられていたなど諸説あるようです。

また、千本の卒塔婆には菅原道真公の怨霊と鎮魂が関係しているともいわれています。

千本一条、つまり平安京の大内裏北端からさらに上ルと千本今出川、さらにさらに上ルと右手に小高い山があります。これが、船岡山です。

かつて船岡山西麓には、墓地や火葬場としての蓮台野があったとのことで、卒塔婆が多く立てられていたことに千本通の由縁とされています。

ただ、船岡山に至るまでに千本通沿いに千本ゑんま堂(引接寺:いんじょうじ)釘抜地蔵(石像寺:しゃくぞうじ)があります。

千本ゑんま堂は、夜に閻魔大王に仕え、あの世とこの世を行き来した小野篁(おののたかむら)が開基です。

苦しみを抜き取る苦抜(くぬき)に由来する釘抜地蔵も船岡山界隈に位置することも、千本通の由縁に関係がないとは言い切れないでしょう。

朱雀大路を千ブラ

千本通の由来に少しこだわってしまいましたが、千ブラを進めましょう。

イメージの域でぶらりんするのに非常に役立った書籍をご紹介します。

古地図と現地図の重ね合わせが満載で絵や写真も参考となり、大変役立ちました。

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千丸(せんまる:千本丸太町)

まず千丸から千ブラを始めましょう。

この地から北西すぐのところに位置する内野児童公園があるのですが、その中に大極殿址があります。

平安京大極殿址

大極殿は、天皇が政務を執り行った場で、どのような風景であったのか想像をしてみるのですが、テレビの時代ドラマの域を超えることができません。

おそらく、御簾の奥におられる天皇の前に太政大臣を始め公卿たちが居並び、合議をしていたのでしょうか。

大極殿址の界隈は、南西に豊楽院(公式行事のための宴会場)、さらに西に左馬寮・右馬寮があり、少し北東に行くと天皇が日常お暮らしになった内裏などさまざまに石碑で紹介されています。

今回、あれこれ調べている中で少し驚く発見がありました!

京都手帖20249月のページに大内裏や内裏の詳細地図があり、よくよく見ると、生まれ育った町家長屋が、この内裏の区域の中である点がわかりました。

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いわゆる瀟洒な京町家という、多くの方が羨望するような町家ではなく雨漏りのするあばら家的な長屋で暮らしていましたが、その地が時代をグルグルと巻き戻せば内裏の中であったとは驚嘆に堪えないと感じてしまいました。

想い起せば、

「このあたりは、掘ったらなんか出る」

といわれていて、子どもの頃に家の裏にある小さな庭をよく掘って土遊びをしましたが、確かにしょうもないガラクタのようなかわらけや茶碗の端くれがよく埋まっていました。

千本出水

千丸から上ルと千本出水に着きます。

この地は、出水の七不思議でご存知の方もいらっしゃると思います。

地図中、七本松出水(バス)の周囲をぐるり見渡していただくと七不思議の寺院があります。

■光清寺の浮かれ猫

■地福寺の日限薬師(ひぎりやくし)

■華光寺(げこうじ)の五色椿

■華光寺の時雨松

■観音寺の泣く山門

■五劫院(ごごういん)の寝釈迦

■極楽寺の二つ潜り戸

千本出水の交差点から西へ一筋目の通りを上ルとすっぽん料理で有名な老舗大市(だいいち)があります。

もう少し上ㇽと五番町で、映画「五番町夕霧楼」の舞台となっていたことを思い起こします。

千中(せんなか:千本中立売)

千本出水から千本通を上ルと千中です。

千ブラというとこの界隈が中心になるのでは、と考えています。

昭和時代、テレビがない頃の娯楽といえば映画を観に行くことだったとのことで、昭和初期に生まれた亡きおやじやおふくろの実話として記憶に残っています。

銀座の華やかさに負けないほど、千本通は賑やかで繁華街というよりもさまざまな飲食店や映画館、劇場が立ち並び、活気に満ちたまちが輝いていたのだと感じられます。

当時、千ブラはまちの人たちふだんでもあり、この通りを歩く(ぶらりんする)ことで元気を得ていたのではないでしょうか。

かつて千本通沿いには、次のような多くの映画館、劇場、寄席がありました。

第二八千代館

中筋の席

千本座

長久座

西陣キネマ(西陣京極の中)

西陣大映(西陣京極の中)

西陣東映(西陣京極の中)

三太郎寄席

北野劇場

千本日活(現在も営業中)

昭和館

西陣劇場

ご参考までに
https://www.1000bura.com/wp/wp-content/uploads/2021/01/MOVIEMAP1-26.jpg

もう一つ、千中を特徴づけるエリアとして西陣京極があります。

子どもの頃の記憶では、とかく人が多く、飲み屋などの飲食店や映画館も上記の通り3軒あったのですが、どこか少し猥雑ともいえる雰囲気が漂っていました。

けれども変わったお店があると覗いてみたいという衝動を隠せなかったことも記憶にありますが。

千中というと、私たち世代(昭和40年代生まれ)では、西陣千本商店街が思い出されます。

商店街では、いつも千本ラブの歌がどこからともなく聞こえてきて、知らぬ間に耳に残っていました。

千本ラブの歌

若い二人にささやく風は

カラー歩道のアーケード

ラブの千本足どり軽く

新しい街恋の街

ラブラブラブラブ

千本ラブ

さらに千中から中立売通を西へ行くと、北野商店街があり、ずっと西へ行くと一条妖怪ストリートに通じます。

そのまま西へ行くと、五色八重椿で有名な椿寺へ通じます。西大路通は目前です。

千本一条、千本今出川

一条通は、平安京の大内裏北端です。

もう少し上ルと千本今出川に着きます。

今出川通を西へ向かうと天神さん(北野天満宮)、東に向い堀川通を経てさらに烏丸通まで来ると南に御所、お向いが同志社大学となります。

平安京と昭和時代を重ね合わせた朱雀大路の千ブラ、イメージの域をさまよいましたが、いかがだったでしょうか。

歩けばたった30分の散策ですが、そこには歴史の重みや面白味が満載で一度千ブラされることも一興だと思います。

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