京大、同志社、立命館~今昔よもやま話、京暮らしの心象から~

京大、同志社、立命館 京都3大学

「京都」という名著

何とは無しに書棚の奥にこっそり隠れていた書を見つけました。

林屋辰三郎著「京都」(岩波新書)という名著。

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表紙は黄ばみ、赤茶けたページをまだバラバラと繰ることができるものの、字も小さく書棚に長く眠っていたようでした。

表紙の隅に「古本のにおいがする」と落書きがされていて、高校時代に隣の席の友人がコソコソと書いて揶揄していたことをようやく遠い記憶から思い起こしました。

初版が1962年発行で、この書は、1978年第19刷と記されていました。

当時、なぜこの本を手に取った理由は今となっては定かではありませんが、幼い頃から日本史が好きで、現在に至るまで私にとってのテーマや指標となるのは「京都」でした。

日本史-史学-林屋辰三郎氏-奈良本辰也氏というキーワードのつながりは、お二方とも京都帝国大学(現京都大学)文学部国史学科卒-立命館大学教授であったというご経歴をお持ちで、日本史がお好きな方はお二人のお名前はご存知だろうと思います。

お恥ずかしながら、ご両名の詳細は知りません。

ところで、このキーワードのつながりと京都というまちが当時の若輩な頭をめぐり、

京大は無理でも、この方々が教鞭を執っておられた立命なら、がんばって入学し、立命の史学を学ぼう、という強い志を持っていました。(結局は、違う道を選択してしまうのですが)

この書「京都」の最終章、15章に「学問と芸術の都市-大学-」があり、「学区制」、「大学物語」という項目があります。

この書には、京大、同志社、立命館といった、京都を代表する3大学について歴史的な視点から創立された背景が記されています。

京都には、多くの大学がさまざまに教育・研究を展開していますが、今回この著書を発見した縁(えにし)を感じつつ、3大学に焦点を当てることは僭越でもあるとは思いますが、3大学の今昔をテーマにご紹介させていただきます。

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昔:昭和の初期~昭和40年初期ごろ

京都大学
京都大学

86歳のおふくろ談なのですが、当時の京暮らしをされていた市井の方たちの視点と同一でおおむね一般性はあると思います。

・戦前・戦中・戦後と(応仁の乱ではない)大学に進学する人は極めて稀。

・同志社や立命に進学する人は裕福な家庭の子弟と決まっていた。

・言葉としてふさわしくないが、「お金持ちの人たちが行く学校」、おふくろやおやじといっ

た貧乏な人たちには縁遠い学校であった。

・立命は夜間大学が充実していて、おやじは大学で学びたいという憧れがあり、ずいぶんと悩んだ。

・京大は別格で異次元?異世界?であったと。

・昭和40年代は、いずれの大学も学生運動が激しく、学生が政治や社会に厳しい目を向け「闘争」という形態が常態という社会様相であった。

余談ですが、

私が大学に入学した昭和60年(1985年)でも、イデオロギーという言葉はまだまだ残っていて、学友会は年に数度学長室のある建物を封鎖し、突如授業に乱入することもありました。

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今:昭和45年ごろ以降

ITが社会的な情報基盤となり、グローバルやダイバーシティが主流となった現代、政治やイデオロギーに関心を持つ学生は少数で、こうした思想に傾倒するよりも未来に対する漠然とした不安に駆られる学生が現代的な特徴ではないかと感じています。

老舗のある事情~ベストは同志社 京都まみれ(井上章一先生著)~

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井上先生はその書で由緒ある老舗の子弟は、京大に入ることは素晴らしいことであるが、このまちに残ることは少ない。跡継ぎには、同志社ぐらいがちょうどよい。と良家の家庭内事情を記されています。

同志社大学
同志社大学

これは、現実的なことでいわゆる「ぼん」いえ「ぼんぼん」たちの親は、中学校から同志社に入れたがる傾向がありました。同志社が無理なら立命にと。

在学中のことですが、確かにそういった様子のよろしい人たちはごろごろいました。(おおむね中学からの内部進学の人たちでした)

立命史学からの寝返り

立命史学を学ぶという憧憬と志ですが、ちょうど烏丸今出川通から寺町通にかけて並ぶ赤レンガの美しさを目の当たりにするたびに、どうやら同志社に惚れてしまったようです。

浪人時代、先に現役で入った友人と頻繁にキャンパス内をぶらぶらしつつ(まだ学生でもないのに)、京都-まちなかの大学-赤レンガの建物が並ぶ風情、いわばまちなかカルチェラタンに魅了され、とうとうこの大学への進学を決意することとしました。

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業界では驚いた立命の入試改革

立命館大学
立命館大学

大学職員となってからも立命のバンカラな風潮、質実剛健な校風が魅力的でしたが、「Rits」を看板に打ち出した大学大改革後、庶民派で親しみのある大学という感覚は私の心情からは薄れました。

おそらくこうした立命=硬派すぎるというイメージからの脱却もあったのだと思います。

年々入学志願者が減少する中、立命館の多様な入試制度創設と改革、つまり何度も同じ大学・学部が受験できる点は業界(大学業界)でも大きな驚きでもありました。

回顧すると私が受験生の頃は、希望大学にどうしても行きたい場合は、大学で何を学ぶかという最も重要な点よりも、学部構わず、文・法・経済など受験できる学部は全て受験することがよくありました。

いずれかの学部に合格すれば、憧れの○○〇大学生となれたからです。

当時、自分の学びたいことと選択した学部とのミスマッチは結構あったのではと推測しています。

ふたたび「京都」という名著

京大、同志社、立命館と3大学について、もっと格調高くアカデミックな内容を目指していたのですが、結局よもやま話となってしまいました。

最後にもう一度林屋辰三郎著「京都」(岩波新書)という名著に触れます。

「京都」というまちの方向性(将来的にいかにあるべきか)について著者が最後のページに鮮やかすぎる論評をお示しになっているので、ご紹介します。

京都は今後いかにあるべきか。

これまで京都市が国際文化観光都市の美名のもと、強力におしすすめてきた観光至上主義は、もはやつよく反省をせまられている。

文化観光都市とならべる以上、文化が観光の犠牲となってはならないのである。

むしろ京都が文化都市であることに徹することによって、おのずから観光の目的は達せられるであろう。

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