幕末の志士を支えた最強の刀剣は何か?剣豪たちの名刀14選(後編)

日本刀による鋭い切れ味

江戸時代、刀剣が最も実戦の武器として威力を発揮した場所、幕末京都。そこに集った志士たちが愛した最強の名刀14振を紹介する記事の後編です。

前回は、近藤勇・土方歳三・沖田総司・永倉新八・藤堂平助といった新選組の面々と、岡田以蔵・河上彦斎ら人斬りと呼ばれる剣士たちを見てきました。

今回は坂本龍馬、人斬り半次郎、桂小五郎、斎藤一、大石鍬次郎、芹沢鴨、勝海舟が登場します。

前編と同じく剣士たちの愛用の刀とともに、それぞれの剣術の流派や戦闘スタイルなどを紹介し、刀剣と切っても切り離せない剣士たちの存在に迫ってゆきます。

坂本龍馬(土佐)の「陸奥守吉行」

坂本龍馬の写真画像

刀の特徴

龍馬は刀を好み、最初2尺8寸2分(約84.6㎝)の源正雄を用いていた。源正雄は江戸時代末期、源清麿の門下で活躍した刀工。

一門の中でも豪壮な作風で知られ、師の清麿に近い腕をもつとされる。身幅が広く反りは浅く覇気のある刀を得意とした。

嘉永6(1853)年~慶応2(1866)年に活動した正雄の刀は、まさに当時の現代刀にあたる。

この新々刀期は、鎌倉や南北朝の長大な刀に帰ろうとする刀剣復古主義がとなえられ、勤王侍の間でも刀身の長い刀が流行した。

その後龍馬は坂本家に家宝として伝来した刃長2尺2寸(約71.1㎝)の陸奥守吉行を兄から与えられた。陸奥守吉行は江戸時代中期の刀工(1650生~1710没)で、土佐藩に招かれ土佐吉行とも称された名工。

龍馬はこれを喜び、「目利きから粟田口忠綱に比肩する名刀と褒められた」と言って、常時携行した。

流派・戦闘スタイル

若い頃、剣術修業に江戸を数度訪れる。

技の合理的トレーニングを掲げる北辰一刀流には、当時諸国から剣術の留学希望者が殺到していた。

龍馬はその北辰一刀流・千葉周作の弟・千葉定吉の道場に通った。免許皆伝とされるが、現存する龍馬の北辰一刀流目録は「北辰一刀流長刀(なぎなた)目録」であるため、剣術の腕については諸説ある。

その後慶応1年、高杉晋作からスミス&ウェッソン№2のリボルバーを贈られ携行。

寺田屋で襲撃された折はリボルバーで応戦した。この銃は寺田屋で紛失し、その後2代目のスミス&ウェッソン№1を入手。

暗殺された近江屋では2代目リボルバーと陸奥守吉行を携行していた。

暗殺時は突然の斬撃に応戦できず、陸奥守吉行の鞘で敵の刀を受け止めて、鎬(しのぎ)の部分に傷跡が残った。

現場

寺田屋(襲撃される)、近江屋(暗殺される)

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中村半次郎(薩摩)の「山城綾小路定利」

刀の特徴 

山城綾小路定利は鎌倉時代の名工。

蒙古襲来(文永・弘安の役)の文永頃に京都の綾小路で活動したとされるが、三条派などとの親近性をもつ作風から、少し時代が遡って鎌倉前期の活動かと推測されている。

山城綾小路定利の刀は、日枝神社に重要文化財、東京国立博物館の国宝と重要文化財などの名作が残り、細身で反りが深く身幅が広く、強さのある刀が見られる。

反りの深い刀は斬撃にすぐれ、屋外で大きく刀をふるったり、敵の刀を受け止める時に威力を発揮した。刃文は直刃で匂口に「うるみごころ」がある。

ほかに、半次郎は「伝・西蓮」とされる刀を所有していたという。この西蓮国吉も鎌倉時代の刀工で、鎌倉後期の蒙古襲来時代、博多で作刀していた。

いわゆる九州古作といわれ、現存品は「地鉄はやや黒みを帯びてネットリとして柔らかく、かつ潤いがある。

・・・直刃がほつれながらも、匂い口がうるむ気配があるなど、古雅溢れかつ野趣があるなどの伝統保守的な作風」とされる
(刀剣徳川https://sanmei.com/contents/media/E33960_S1512_PUP.html)。

流派・戦闘スタイル

薬丸自顕流。

薩摩の示現流の東郷重位の弟子、薬丸刑部兼陳が、示現流に家伝の野太刀を組み込んで創出したという。別名・野太刀自顕流

なお、この元となった示現流は、薩摩藩外不出の流派で、初太刀に全てをかけて斬り込んでゆく超攻撃的スタイル。攻めに徹し、受け(守り)は無く二の太刀すら無いとされる。

薩摩の初太刀は、近藤勇にも非常に恐れられた。

修業は6尺ほどの丸太を立てたものを木刀で袈裟懸けにひたすら打ち込む。

また、数本の丸太を立て、その間を駆け回って打ち込む方法もあり、特に後者は、ひとりで多数に向かう野戦向きの修業とされる。

貧しかった半次郎はほとんど独力で、庭の木を木刀で一日8000回打ちたたく修業をして腕を磨いた。

雨だれが軒先から地面に落ちるまでの間に刀を3回鞘から抜いて納める、という速さを手に入れ、屋外でのすれ違いざまの瞬殺などに超人的な力を発揮した。

幕末四大人斬りのひとり。

幕末の四大人斬り  岡田以蔵(土佐) 田中新兵衛(薩摩) 川上彦斎(肥後) 中村半次郎(薩摩)

現場 

青蓮院宮の警護、赤松小三郎(薩摩藩の砲術師範、幕府側のスパイとの疑惑あり)暗殺、禁門の変(薩摩方)、戊辰戦争、西南戦争

斎藤一(新選組)の「池田鬼神丸国重」

刀の特徴

2尺3寸1分(70㎝)の摂州住池田鬼神丸国重。摂州住池田鬼神丸国重は江戸時代前期、寛文から天和のころ活動した刀工。
備中で水田派として活動したあと、摂州(大坂)池田に出て二代目河内守国助の門人となった。

大坂新刀は江戸新刀と比べて華美な作で知られ、新選組局長の近藤勇は大坂刀を実用性に乏しいとして退けている。

池田鬼神丸国重の刀は、国助譲りの拳型の丁子乱れの刃文、または水田派の沸(にえ)出来の大互の目乱れの刃文をもち、華やかでありながら業物としても知られる。

森の石松の刀だったことでも名高い。

ほかに斎藤一は、関孫六(孫六兼元)を用いたとも言われる。

室町時代から続く美濃の関孫六は、頑強で折れにくく実用的なことで知られた。特に二代目兼元は、斬れ味の良さで名を轟かせ、江戸時代の『懐宝剣尺』で「最上大業物」に分類された。

流派・戦闘スタイル

斎藤一の流派は小野派一刀流や無外流などとされるが、その戦闘スタイルには謎が多く、流派も正確なところは不明である。

小野派一刀流は徳川家の剣術指南役として柳生新陰流とともに採用された流派。質実剛健な実力派として社会的な地位も高かった。

無外流は土佐藩士の上士限定の流派とされ、山内容堂などもこれを学んだという。 
新選組では三番隊組長であり撃剣師範。「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と永倉新八に評され、新選組ナンバー1の呼び声も高かった。

新選組で最も人を斬った男と言われるが、ほとんど傷を負わなかったとも伝えられる。

しばしば粛清役をつとめ、背後から一刀で斬り殺していたという。

 現場

天満屋事件(坂本龍馬暗殺後、その下手人は紀州藩であると考えた海援隊・陸援隊士たちが紀州藩公用人・三浦休太郎を襲撃、護衛の新選組と戦った)、鳥羽・伏見の戦い~戊辰戦争など

日本刀

芹沢鴨の無銘の長刀

刀の特徴

薙刀を作り直したとみられる無銘の長刀。

水戸藩の郷士の家に生まれた芹沢は、徳川斉昭が名付けた「弟橘姫神社」という神社の神主・下村家に生まれ(一説では婿養子)、当初は後継者として活動していた。神社とのつながりは深く、この刀も、香取神社に奉納されていた薙刀をとってきて作り直したとの説がある。

流派・戦闘スタイル

戸ケ崎熊太郎に師事。神道無念流を学んだ。早くして神道無念流免許皆伝を得る。

初代新選組局長。カリスマ性があり、八月十八日の政変では突き出された槍を鉄扇であおぎ立てて、新選組(当時は浪士組)の認知に一役買った。

酒乱でしばしば乱暴を働き、些細なことで人を斬った。大坂の力士集団とのトラブルで力士を斬り捨てた折は、その斬り口の鮮やかさから、芹沢にかかったら近藤も危ないと土方を恐れさせたといわれる。

芹沢鴨暗殺の時、新選組は芹沢を十分酔わせた上で就寝中を襲った。暗殺メンバーは土方歳三、沖田総司、原田左之助、山南敬介とされるが、他に藤堂平助、御蔵伊勢武の名も挙げられている。  

現場

水戸天狗党としての戦い。大坂の力士たちとの乱闘、八・一八の政変など。

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大石鍬次郎

刀の特徴

2尺5寸(75.8㎝)の大和守安定。大和守安定は江戸時代の刀工。

長曽祢虎徹と似ており、影響を与えたともいわれる。『懐宝剣尺』で「良業物」とされ、斬れ味には定評があった。反りが浅く江戸新刀らしいつくり。「天下開闢以来五ツ胴落」と載断銘をもつ大和守安定もあり、その刀は死体を五体重ねて斬り落とす五つ胴ができたという。

なお、沖田総司が山南敬介を介錯したのも大和守安定だったとされる。ほかに愛用者としては「伊庭の小天狗」と称された心形刀流の伊庭八郎がいる。

流派・戦闘スタイル

小野派一刀流を修め、のち天然理心流を学ぶ。

居合抜きの達人で、沖田総司らと共に新選組有数の剣士として認識された。近藤勇からは諸士調役兼監察に登用され、重用されるとともに粛清に関与。

油小路事件では伊東甲子太郎を殺害した直接の下手人である。

伊東の仲間であった御陵衛士からの深い恨みを買い、元隊士の阿部十郎からは剣の腕が立つだけで酷薄な人物と評された。異名で「人斬り鍬次郎」

現場

三条制札事件(土佐藩士とのトラブル)、油小路事件、天満屋事件、鳥羽伏見の戦いなど。

桂小五郎(木戸孝允)(長州)の「備前長船清光」

桂小五郎像

刀の特徴 

備前長船清光は備前長船派の刀工。備前長船は、良質の砂鉄を産する備前・吉井川流域で鎌倉時代中期から栄えた刀工の一大拠点だった。清光は末備前と呼ばれる室町後期の刀工。

この頃は大量生産の数打ち物と大名などからのオーダーメイド(注文打ち)を作り分けたが、清光の注文打ちは特に斬れ味にすぐれ、江戸時代の『古刀鍛冶備考』で良業物に分類された。

流派・戦闘スタイル

柳生新陰流。のちに斎藤弥九郎の神道無念流「練兵館」で免許皆伝。柳生新陰流は、柔術の身体さばきを取り入れ、相手の動きを予測。刀に執着せず素手で相手の刀をとらえる「無刀取り」の技をもつ。

また斎藤弥九郎の神道無念流は、強烈な一撃を叩き込む一撃必殺で知られるが、無用な争いを避け、どうしても避けられない時にのみただ一撃に打ち取ることをむねとするという。

桂小五郎は上段に構え、静かな気迫で他を圧倒して、近藤勇から「手も足も出ない」と恐れられた。わずか1年で練兵館の塾頭となって5年間つとめた。

現場

真剣で現場を戦った記録はほとんど残っていない。長州の重鎮として絶えず命を狙われたが、実戦を回避し続けたため「逃げの小五郎」と呼ばれた。

刀を抜こうとしている様子

勝海舟の「水心子正秀」

刀の特徴

勝海舟の父・小吉は、幕末の剣聖・男谷精一郎を親戚にもち、さらに刀剣売買をしていたため、勝もまた流行の刀剣には詳しかったと思われる。

勝の刀は、水心子正秀。水心子正秀は江戸時代後期、刀剣復古論、刀剣実用論をとなえて、剛直な鎌倉期の刀を理想とした刀工。

彼のひらいた新々刀時代の刀は、豪壮・長尺で切っ先が大きく、特に屋外での斬撃に向いていた。こうした刀は幕末の勤王侍のあいだで流行したが、使いこなせない志士たちも多かった。 

ちなみに、この水心子正秀を愛用していたのは、幕末四大人斬りのひとり、河上彦斎

高速の片手抜刀で、右足を前へ、左足を後ろへ伸ばし、腰が地面につくほど低い姿勢から逆袈裟斬りをおこなって怖れられたが、これは水心子正秀でおこなわれた。

勝海舟は河上彦斎を「怖くて怖くてたまらなかった」と言っている。

このほか、勝海舟は明治に入ってから、江戸城無血開城など長年の貢献により、徳川慶喜から2尺2寸5分(71.2㎝)の長曽祢虎徹(「海舟虎徹」と呼ばれる)を贈られた。

流派・戦闘スタイル

父方の親戚に剣聖・男谷精一郎をもち、男谷のもとで、また、これも剣聖・島田虎之介のもとで直心影流を学ぶ。

免許皆伝。島田からは参禅による心の修行を含めた剣術を教えられた。

のち、北辰一刀流免許皆伝。 

私塾「氷解塾」で蘭学と兵法を教え、神戸海軍操練所をひらいて海軍の創設に奔走。坂本龍馬の勧めで、これも幕末四大人斬りのひとり、岡田以蔵の護衛を受け、以蔵にリボルバーを与えたという。  

現場

真剣での勝負の記録等はほぼ残っておらず、水心子正秀や長曽祢虎徹を抜くことはほとんど無かったと伝えられている。

いかがだったでしょうか。

幕末京都に集結した剣豪たちの最強の愛刀を、彼らの戦い方と合わせて見てきた後編7振り。

それぞれの剣士の刀と戦い方は深い交わりをもっています。直接に真剣をふるうことをしなかった剣士たちも、その生き方と剣がどのように交わっていたか見ることで、ぐっとリアルに感じられてきます。 

刀の個性は剣士の個性。幕末の京都はそれを強く教えてくれる時空なのです。

参考文献
牧逸彦『名刀伝』シリーズ 新紀元社
『最強剣豪大全』ダイヤプレス2013

この記事を書いた人
入江 澪

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