はんなり、ほっこり、まったり、微妙にニュアンスが違う京ことば
ぐるりと世の中を見廻してみても、気持ちがほぐれるような癒しは数少ないご時世です。
つねひごろ何かとストレスを感じつつ、この国は大丈夫かいなと感じてしまうのも未来に対する鮮やかなイメージが思い浮かばないことに起因しています。
人口が減少していく国家は衰退していく?というような想いを誰もが頭の隅に追いやりつつ、人知れずどこか癒しを探し求めている日々があります。
癒されるというのは、今となってはよく耳にするお決まりの言葉となってしまっていますが、「ことば」に癒されるという点に注目し、京都に暮らしている中で3つの癒し京ことば「はんなり」「ほっこり」「まったり」を私的な想いを交えてご紹介します。
はんなり
ネットで調べると、「上品ではなやかな感じがするさま」とありました。
つねひごろとして、はんなりはあまり使うことがありませんし耳にすることも少ないです。
メディアでは、京都というとはんなりを代名詞のようにしていますが、はんなりしたはるとかはんなりした人というようなことはあまりいわないと感じています。
個人的にはんなりからのイメージとしては、「きもの」が相当します。
きものなら、舞妓はんや芸妓はんがおられる祇園や上七軒といった花街を想定しますが、この方たちだけではありません。
まちなかで雅な風情を漂わせ、瀟洒にきものを着こなしておられる女性を見かけることがあります。
華道や茶道、あるいは何か日本文化や京都文化を教えておられる方であろうかと思われるのですが、「粋なひとやなあ」と心で我知らず呟いていることがあります。
たいていの場合、通り過ぎてから振り返ってしまうことが多いのですが、これは不粋だと戒めつつ気をつけないといけないと感じています。
この際に身に纏われておられるきものと着こなしに対して心に浮かぶのが、はんなりなのです。
(広告)ほっこり
こちらもネットで調べると、「いかにも暖かそうなさま。ふくよかなさま。癒されること」とありました。
私的にほっこりからのイメージとしては、「湯気が立った焼き芋のひと口目」が相当します。
甘味がお好きな女性には、「なるほど」とご理解いただけるのではないでしょうか。
疲れた体や心が、正に癒されるのです。
しかしながら京都では、少し異なる意味で使うこともあり、どちらかといえば癒しとは反対の意味が含まれています。
仕事や作業、あるいは家事が非常に忙しく少しイライラした精神的な状況(顔つきも険しい)で一段落ついた際に「ああ疲れた」とはいわず、「ほんま、ほっこりした」という感覚で使うことがあります。
この場合は、癒しではなく苦行からの解放という感覚に近いのではないでしょうか。
このような意味で使っていることの方が多いような気もしています。
さらに、おもしろくないことがあった日など(例えば上司にこっぴどく叱られたとか親しい人と思いがけずケンカした)
「今日は一日つまらん日やった。ほんまほっこりした。」
という風に愚痴が加味される場合もほっこりを口にしています。
(広告)まったり
ネットでは、「落ち着いていて、穏やかな様子。とろけるような感じ」とありました。
七草も元日の白味噌雑煮も過ぎてしまいましたが、まったりからイメージするのは、白味噌の味が濃い汁物となります。
とろけるような感じとは少し異なるのですが、とろみがあって甘味があり味噌の芳香が鼻から抜けるというような、表現が難しいのですが一度白味噌の雑煮をご賞味いただければと思います。
まったりでもう一つイメージするのは、ソファーや畳、フローリングの床に吸い付くようにしてごろりと横たわることです。
いわゆる、まったりする、という感じでよく使われます。
このまったりには、疲れた体を癒したい(休めたい)という気持ちと休日などの自分だけの時間を誰に咎められることなく自由にゆっくりしたいという気持ちが込められているのではと思われます。
はんなり、ほっこり、まったりといった京ことばをご紹介しましたが、違和感があるとお感じになられる方もいらっしゃると思います。
僭越ながら、京ことば談義のような機会があればと感じる次第です。
京ことば、探ると面白いですねえ、やはりこのまちには奥の奥があるようです。
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