春の鞍馬で山椒と義経記~遮那王の背比べ石を山に見て~

鞍馬の花山椒は素敵に贅沢な春の味覚

新入学のシーズン、山は木の芽の季節です。

木の芽すなわち山椒。山椒の実をちりめんと一緒に炊いたちりめん山椒は、京都人の魂を下支えする永遠不滅のご飯のお供です。山椒は花、葉、実、木の皮まで全てが香り、賞味されるすぐれもの。特に4~5月のほんの一瞬だけとれる花山椒は、優美な清涼感と繊細な噛み心地、なんとも高揚感の広がる贅沢な春の味覚です。これをお吸物に入れるも良し、しゃぶしゃぶの肉で巻くもよし、鞍馬の花山椒の佃煮はもう何というか、とっても素敵。

山椒

鞍馬は出町柳駅から叡山電鉄でほぼ30分、市街地からそれほど距離はありませんが、さてそこから町の方角を眺めると、まず胸に浮かぶのはその遠さです。眼下に市街地を望むのでなく、都ははるかな木立の連なりの向こうにあるのです。ふと、閉ざされた場所にいると感じてしまうのは、ここから幾度もその方角を眺めたであろうあの少年のことを思うからかもしれません。

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少年牛若、長じては源義経、鞍馬寺を出奔する

源義経像

平治の乱で敗れた源氏の頭梁、源義朝の末子である牛若は、七歳の時、鞍馬寺の東光坊に預けられました。時は平氏の天下、敗者の子として僧になるべく運命づけられた入山でした。生来利発な牛若は学問に専念し将来を嘱望されますが、十五歳の秋、父義朝の郎党の子が彼の耳もとでこう囁いたことから運命が変わります。

君は清和天皇十代の御末、左馬頭殿の御子……御一門の源氏、国々に打こめられておはするをば、心憂しとはおぼしめされず候や」(『義経記』より。以下同)

(あなた様は清和天皇の十代の後胤、源義朝殿のご子息。……源氏ご一門の皆様が諸国に押し込められていらっしゃるのを、情けないとはお考えにならないのですか)

牛若は学問のことなど忘れ果てます。謀反をするにはまず早業を習得せねば、と山奥の僧正が谷に夜な夜なかよい、大木を平清盛に見立てて斬りつける毎日。これに気づいた周囲は、早く髪を剃って出家させてしまえと慌てますが、牛若は「何ともあれ、寄りて剃らんとする者をば突かんずるものをと、刀の柄に手をかけておはしければ、左右なく寄りて剃るともみえず」

自分の髪を剃ろうとする者は突き殺してやる、そう決めて刀に手をかけている少年に皆は困じ果てます。牛若は同じ鞍馬でも人目につかないところへ移され、この機会に遮那王と名を改めました。そんなとき偶然知り合った金売り商人吉次から、源氏ゆかりの奥州を治める藤原秀衡の話を聞かされた遮那王は、一気に燃え上がります。そして翌日、奥州へ鞍馬を出奔するのです。

鞍馬寺

ここでは後世の人の望む義経が、すなわち一の谷では崖から馬で駆け降りて敵を奇襲し、屋島では暴風をついて海を渡り、常に前のめりで一気呵成に平氏を打ち砕いてゆく炎のような武将が、始発からすでにそうだったのだというふうに描かれており、その不思議な一途さがわれわれを魅了します。

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背比べ石を山に見て~鞍馬は明日を期す者たちの土地

義経公背比べ石

僧正が谷には、遮那王が奥州に発つ前、自分の背丈を比べたという伝説の背比べ石が残っています。その解説の立札にはこの石を詠んだ与謝野鉄幹の短歌も添えられています。

遮那王が背比べ石を山に見てわが心なほ明日を待つかな

(遮那王の背比べ石を鞍馬山に見て、私の心もやはり明日を待っていることだ)

与謝野晶子の夫、鉄幹は京都の人。1900年『明星』を創刊し、短歌界の発展に大きく寄与しましたが、その後は妻晶子の活躍の陰に隠れ、屈託の日々を過ごしました。後年は帝国議会に出馬するも落選。晶子はこの鉄幹を終生愛したといいます。

鞍馬山より臨む

鬱蒼と木の生い茂る鞍馬の山中に背比べ石を見るとき、少年の野心と憧れが胸を刺します。奥州は遠く、都はもっと遠い。それでもなお明日を待つ思いは、永遠にわれわれ自身のものでもあります。

京都 鞍馬寺の紅葉

どの時期も香り立つ山椒のように、義経の人生はその困難にも蹉跌にも香気を漂わせています。そのゆかりの地、鞍馬は、かつての高貴な憧れをとどめ、すべての明日を期す者たちを鼓舞しています。

この記事を書いた人
入江 澪

うなぎとじゃこの山椒煮

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