【幕末の刀】坂本龍馬を斬った刀に佐々木只三郎の暗殺計画を考える

坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺の地 近江屋跡

霊山博物館に残る「坂本龍馬を斬った刀」

京都の幕末維新ミュージアム「霊山博物館」に、坂本龍馬を斬った刀というのがあります。

「刀長42.1cm。京都見廻組隊士・桂早之助(かつら はやのすけ)が所用した脇差で、銘は「越後守包貞」(えちごのかみ かねさだ)と切られていますが、偽銘になります」(霊山博物館サイトの解説)

「越後守包貞」は大坂新刀の刀工で、特に二代目包貞は名工として有名でした。
美濃に生まれ大坂に出て初代包貞の門弟となり、大業物や上々品など斬れ味にすぐれた作を残しました。当時からさぞ偽銘も出回ったことでしょう。

1867年、坂本龍馬と中岡慎太郎は、京都の近江屋に潜伏していたところを数人の男に急襲されました。
龍馬は、愛刀・陸奥守吉行の鞘で相手の斬撃を受け止めますが、応戦する間もなく頭部を斬られて絶命、中岡慎太郎も数日後に亡くなります。

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京都見廻組が龍馬暗殺に短い刀を使った理由とは 

龍馬たちを襲った京都見廻組は、8.18の政変の後、新選組同様京都の治安維持にあたるべく新設された組織でした。
後年龍馬暗殺を告白した今井市郎らによると、このときのメンバーは今井以外に、佐々木只三郎、渡辺吉太郎、世良敏朗、高橋安次郎、桜井大三郎、土肥仲蔵、そして霊山博物館に偽銘の脇差を残す桂早之助らがいます。

龍馬を斬ったといういわくつきの脇差は、全体的に茶色い錆が浮きあがり、刃こぼれをし、素人目にはどこにでもある古刀のさまをしています。
また「脇差」と紹介されていますが、霊山博物館の動画のテロップでは「脇差(小太刀)」とあります。小太刀は刃長が2尺(60cm)前後、脇差は1尺(30、3cm)以上2尺未満の刀で、両者まとめて脇差と言われることもあるようです。   

この刀を残した桂早之介は、京都所司代の同心から見廻り組に抜擢された人物でした。
同心の十手はおよそ1尺5寸(45cm)の鉄棒で、これで防御も攻撃もしていたわけですから、脇差や小太刀はむろん得手の寸法だったでしょう。

なぜ、龍馬暗殺に普通の刀でなくこうした短い刀が使われたのか。

これについては霊山博物館の動画で解説があります。
龍馬たちがいた近江屋の二階は「勾配天井」で天井が低く、長い刀はつっかえてしまうため、小太刀の使い手が斬り込んだのだ、と。

(出典 幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」)

近江屋襲撃を率いた小太刀の名手、佐々木只三郎

確かにあの日の近江屋襲撃には日本一の小太刀の名手が立ち会っていました。

佐々木只三郎
会津の出身で、新撰組の前身・浪士組の結成に関わり、清河八郎暗殺にも関与した人物です。
彼は会津で神道精武流を修めましたが、この流派は剣術と柔術を組み合わせたもので、甲冑を着た相手を組み伏せ、鎧の隙間を小太刀で突くわざを教えるのだそうです。
佐々木はこの精武流の使い手で、小太刀を使わせたら日本一とうたわれた男でした。

慶応1年12月、佐々木只三郎は京都見廻組の与頭に任命され、見廻組の実質的リーダーとなりました。

小太刀日本一の男が率いる近江屋襲撃計画、それは狭い室内で刀を振り回すことなく、小太刀・脇差の斬撃と迅速な突きとでピストルを所持する相手を制圧する、というものだったようです。

近江屋の階段をのぼって天井の低い部屋に侵入した男たちは、完璧な仕事を成し遂げたといえます。
霊山博物館に残る錆だらけの脇差は、それを率いた男の腕前や思案のあとまで想像させる稀有な痕跡となっているのです。

この記事を書いた人
入江 澪

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