鳥羽・伏見の戦いを見た旧幕臣が語る、「京都の正しい攻め方」は
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は大苦戦、総大将慶喜の戦線離脱が致命傷
1867年12月、徳川慶喜は薩摩藩らの宮中クーデターによって幕府廃絶を通達され、無念を呑んで京都・二条城から大阪城へ下向しました。暫しはそこで交渉に努めた慶喜でしたがついに挙兵を決意し、会津・桑名藩兵を含む1万5千の旧幕府軍が京都へ向かって北上します。
軍勢は下鳥羽・伏見で新政府軍の猛攻に遭って大苦戦。さらに敵方の錦の御旗の登場に動揺が走ります。しかも愛宕下ろしの寒風がひっきりなしに北から吹いてくる。そんな必死の戦闘のさ中、総大将の慶喜がひそかに軍艦で江戸へ帰還してしまったその衝撃たるや、『桑名藩戦記』がこれを「天魔の所為」と記していることからも、残された者たちの呆然自失のさまが窺えます。
福地源一郎「幕府衰亡論」は旧幕府軍のとるべきだった戦法を語る
後年、渋沢栄一が慶喜の伝記を編纂し、逼塞( ひっそく)する慶喜の名誉を回復させんとしたのは知られています。この編纂にかかわった福地源一郎は、当時大阪城の現場に居合わせた旧幕臣ですが、その著「幕府衰亡論」の中で、あのとき旧幕府軍はどう戦えばよかったか、その戦略を上策・中策・下策に分けて書いています。
「幕府、依然として大坂に拠りて自重し、海にはその軍艦を摂海に繋ぎて西南予知するの通路を塞ぎ、陸には兵庫の関門を鎖し、淀川の水路を扼(やく)し、山崎その他の要所に護兵を配布して以て諸方の連絡を絶たば、京都はさながら敵囲の中にある形勢となり、薩・長懸軍は孤城落日の死地に陥り、戦わずして自ら潰ゆべかりしなり。これを幕府のための上策なりとす」
(幕府が大阪城で慎重に構え、大阪湾に軍艦を係留して西南から寄せてくる薩長軍の通行を塞ぎ、陸路は兵庫の関を閉ざし、淀川を封鎖し、山崎その他の要所を警護して諸方との連絡を絶ち切れば、京都は敵の包囲の中にある形勢となり、薩長遠征軍は孤立して窮地に陥り、戦わずして自滅しただろう。これが幕府のための上策である)
確かに西郷隆盛も水路をひと月扼されたら新政府は危なかったと語っていたとか。
福地源一郎、字は桜痴。語学にすぐれた西洋通でありながら歴史に関心が深く、「太平記」なども読んでいたといいます。
ちなみに福地のいう下策は、全軍一気に山崎街道へ向かって京都を突くことで、これはかの鳥羽伏見の戦いを指して言っているのですが、福地いわく、あんな狭隘な道に兵を配し、側面からの攻撃を考えず、大阪湾に全国有数の軍艦をもちながら無策の出兵をしたのは奇異であった。幕府の将校でこんな容易い兵理を知らぬ者はなかったろうに、あれは幕閣の驕りである、と。
(広告)京都の正しい攻め方は・・・「太平記」巻16、楠木正成が教える攻略法
思うに、将校でなくとも地理や兵法に暗くとも、京都には正しい攻め方があった。セオリーを知る者には京都は攻めやすい。守りにくい。それは「太平記」読みにとって、ほぼ知られた事実だったと思われます。
建武の新政末期、九州から大軍を率いて攻めてくる足利尊氏を迎え撃つにあたり、楠木正成は後醍醐天皇に京都放棄を進言します。すなわち、帝は叡山に逃れて尊氏勢を都に入れ、正成は河内にくだって河尻を塞ぎ、両側から都を圧して兵糧攻めをすれば、敵は次第に疲れてくる、そこを新田義貞と正成とで山門と河内、別々の方角から攻め込むなら、一戦で朝敵を滅ぼすことができる・・・。「太平記」巻16の内容です。
京都は街道が交差するため複数筋の防御が必要となります。また食料補給を外部に依存するため兵糧攻めにはひとたまりもありません。西を警戒し、淀川から西への通路を塞ぎ、外界との繋がりを絶って内部を疲弊させ、攻めるときは複数の方角から攻める。楠木正成の献策は、あの惨憺たる京都攻めの現場を見た福地の胸に去来しなかったでしょうか。
福地源一郎は慶喜を、全面戦争を回避し諸外国の干渉を防いだ功労者であると評しています。鳥羽伏見の戦いを下策とする戦術論は、慶喜の東下・恭順を評価することへ繋がってゆくのですが、そこに数百年前の京都をめぐる戦いの語りを重ねることは、多くの太平記読みにとって不自然ではなかったと思うのです。
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入江 澪