どう読む家康~京都・圓光寺の東照宮が語る大権現の書物愛
京都・圓光寺の東照宮は家康の書物愛を感じさせる
徳川家康を祀った東照宮は全国で130ほどもあるそうですが、京都で東照宮といえば次のふたつが知られています。
ひとつは有名な南禅寺の塔頭金地院の東照宮で、家康の遺髪と念持仏を祀ったもの。もうひとつは一乗寺にある圓光寺の東照宮で、こちらには家康の歯が埋められているそうです。
南禅寺金地院は家康の側近、以心崇伝の居所。
1616年の家康臨終時、ここに堂をつくって京都所司代や武家の者に拝させよという遺言があり、祀られた遺髪も念持仏も大権現の遺徳をしのぶよすがとしていかにも正統派の香りがします。
もう一方の圓光寺はもともと1601年、家康が伏見につくった寺でした。
家康はここで僧俗問わず入学できる学校をひらき、『貞観提要』『吾妻鏡』などの出版事業もおこなったといいます。
寺はその後相国寺内に移り、寛文7(1667)年現在の一乗寺に移転しました。裏山にある小さな石の鳥居の奥に簡素な墓石のようなものが立っているのが東照宮です。
ちなみにここにある家康の歯はいつ伝わったものなのか、そんなことを考えてしまうのは、われわれが家康のものとして実に見事な総入れ歯を知っているからかもしれません。
家康は晩年すっかり歯をなくし、鯛の天ぷらをばりばり食べて死んだときも、その入れ歯を使っていたとか。
ちなみに歯を祀るのも、釈迦の歯を仏舎利として尊ぶのを家康が知らないはずはなく、もしかしたら生前圓光寺を訪れた際、記念の品をと言う寺僧に、あ、それじゃこれでも、とちょうど抜けた歯をくれてやったりとか、何かこの歯にはそういうしゃれっ気めいた軽やかな想像まで浮かびます。
そのくらいここは本当に家康愛顧の寺だったという気がするのです。
崇伝の金地院のような政治的な意味でなく、この寺でおこなっていた教育と出版というプロジェクトは公私ともに家康その人の好みに合っていた、家康の夢を載せたものだったという気がするのです。
「どうする家康」という難局を書物と人とで切り抜けていった
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」は、弱小国に生まれたか弱き家康が、周囲に助けられながら数々の難局を乗り切って天下人となってゆくさまを描いているようです。
難局に直面するたび、さあどうする、どちらを選ぶ、と判断に迫られるわけですが、それを乗り切らせるのは何も周りの人々の支えばかりではありません。『論語』『孟子』『吾妻鏡』『貞観提要』、家康は子供時代から読書に親しみ、書物によって得た知識でさまざまな局面を切り拓いていったといわれています。
特に有名なのは『貞観政要』で、政治の要諦をあらわしたとされるこの書は、圓光寺でおこなわれた出版プロジェクトの中心のひとつでした。
家康は晩年駿河に移り住んだのちも出版事業をしています。
こちらで出された『群書治要』は、治世に有益な文言を集めた唐代の書ですが、中国では散逸してしまったものが日本での伝来によって残っているとか。
数々の難局をどうする、どうする、と思案しながら乗り切ってきた家康が、読書によって自分を鍛え、書物の力を信頼し、積極的にそれを広め残そうとしていた様子が窺えます。
(広告)『吾妻鏡』から学んだ東国と京都との関わり方、家康の書物愛は最後まで続く
江戸城内にあった紅葉山文庫は、家康の蔵書をもとに歴代将軍が集めた書籍をおさめたいわば将軍たちの図書館でした。
家康は古典籍の書写などもさせて活発に蒐集をおこないましたが、その中のひとつ、慶長御写本『明月記』も紅葉山文庫には入っています。
『明月記』は平安末期から鎌倉時代の藤原定家の日記。
定家は鎌倉の三代将軍源実朝の和歌の師であり、また後鳥羽上皇に仕える廷臣でもありました。『吾妻鏡』と『明月記』を読むと、東国と京、それぞれの歯車の回転を往還し、俯瞰する感があります。
源頼朝に憧れたといわれる家康は、頼朝のように東国に幕府を築き、京都の情勢に目を光らせました。
かれが『吾妻鏡』を愛読したのなら、朝廷の叛く可能性を見越さなかったはずはなく、最晩年の1615年、まさに大坂夏の陣の年、家康は「禁中並公家諸法度」で朝廷や宗教界に厳しい統制を敷きます。
あらゆる可能性を考慮して不安な要素を潰しておく、読書はかれにすぐれた戦略家としての目を持たせたはずですが、ただ、圓光寺の裏山にある簡素な東照宮は書物と教育を愛した人としての家康をわれわれに思い起こさせるのです。
この記事を書いた人
入江 澪