幕末・明治の京都、まちの様子や暮らし~古写真を見ながら~
進化的社会に生きる私たちなのですが、この恐ろしい速度で変遷していく中でも新しいものばかりでなく、古いものに関心が行きます。
先日たまたまですが、YouTubeで1940年代・1960年代の東京の街や庶民の暮らしの動画を見つけました。
一般的な家庭を映した内容でしたが、昭和40年代で5人家族が慎ましく朝食を食べる風景が映し出され、どこか懐かしい趣と「生きる」という意味の継承を感じました。子どもたちはおかっぱ頭、母親は着物に割烹着というようないでたちで、私の幼い時の写真と重なり合うような感じがあり、遠い時間・空間を彷彿とさせるかのようでした。
(広告)古写真が語るもの
懐古主義、感傷主義といってしまえば、たやすく理解できてしまうのかもしれませんが、画像や映像で振り返ることに昔の暮らしや社会の様子を認識し、その延長線上に今の暮らしや社会があると理解することができるのです。
時間は過去から現代、未来へと永劫連続していくものですから、今を起点に立ち止まって過去を自分なりに検証することに意義があると思っています。
要は、今ある私がどうやって時間的・空間的に流れてきたのかを知ろうとすることも大切であると感じているのです。
小学校高学年頃でしょうか、日本史の学習がそろそろ始まるのですが、私は歴史を学ぶ面白さを体感したようです。まちは、ゴロゴロと歴史素材が転がっていますから、日本史に魅了されました。今も歴史は好きで、大学入試の選択科目も日本史でした。
幕末や明治の初期というのは、維新という大変革期でしたが、非常におもしろいですね。残されている古写真から、さまざまなものが見えてきます。
もちろん残されている写真は、自然に撮られたものではなく、撮影者の作為や意図が感じられますが、それでも当時を生き抜いた人たちが見せるしぐさや表情が私たちの直感に強く響くのです。
本棚にほこりをかぶっていた古写真の書籍を久々に見ているのですが、日本人の気骨の原点があちこちに見受けられ、現代に生きる軟弱な私などは脱帽せざるをえないと感じています。また、女性も美しい。
ネット上のサイトをぶらぶらしておりましたら、幕末のイケメンに焦点を当てるサイトがありましたが、幕末のイケメン、今の時代でも十分通用するとされていました。
これは、大きな認識違いで、過去に生きた人たちに対する現代人の傲りです。傲慢の何ものでもありません。反対に、現代人が過去に対して通用すると考えなければなりません。
古写真から、かつての京都の暮らしやまちの人たち、祭りと今もって継承されていることばかりで、やはり敬意をもって眺める必要があると強く意識しています。
幕末・明治の古写真の書籍を数冊ご紹介しておきます。
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