葵祭の葵(あふひ)と逢ふ日~『建礼門院右京大夫集』~
京都を代表する祭、葵祭を「あふひ」(葵/逢ふ日)の掛詞で味わおう
風薫り、梢に若葉が涼しく茂る季節、今年も葵祭の時期がめぐってきます。
葵祭は、陰暦四月の中の酉の日、現在は五月十五日におこなわれる京都・賀茂社の例祭で、正式名称は賀茂祭。別名「北の祭」「みあれ(御生れ:神の誕生をあらわす)」などとも呼ばれます。
祭では勅使たちが上賀茂、下鴨の社に詣でる華麗な行列が見ものですが、賀茂の神紋、二葉葵にちなんで葵を行列の人々の挿頭(かざし)につけたり、社頭に掛けたりする習わしが知られています。「葵(あふひ)」は「逢ふ日」の掛詞。神との出逢い、祭との出逢い、そして男女の出逢いまで、「逢う」という意味を含み、しばしば「かざす」「かく(掛ける)」の縁語とともに用いられます。
建礼門院右京大夫、葵祭の日に「あふひ」の和歌を詠む
時は平氏全盛の平安時代最末期、平清盛の娘で高倉天皇に入内した徳子に仕える女房、右京大夫は、次のようなやりとりを記しています。
おなじ人の、四月みあれの比(ころ)、藤壺に参りて物語りせし折、(平維盛がやって来て警護に立つ姿を)『あれがやうなるみざまと、身を思はば、いかに命も惜しくて、なかなかよしなからむ』など言ひて
うらやまし見と見る人のいかばかり なべてあふひを心かくらむ」
(『建礼門院右京大夫集』)
「おなじ人」とは藤原実宗のこと。作者右京大夫と仲が良く、以前作者に気のあるような和歌を送ってきたこともありました。「四月みあれ」すなわち賀茂祭の頃、作者と実宗が宮中でおしゃべりしていると、平維盛がやってきます。維盛の姿を見て実宗は「自分があれほどの美男子だと考えたら命も惜しく思われるから、かえってよくない」などと負け惜しみを言い、作者に向かってこう歌を詠みます。
「羨ましいことだ。誰もかれも皆、あの維盛との逢瀬をどれほど心にかけていることだろう」
平維盛は、平重盛の長男。平氏の次代を担う若手ホープで、当時、光源氏になぞらえられた美男子でした。あふひ(葵)はむろん賀茂祭の象徴。誰もが祭を気にかける時期、というのが含意されています。誰もが祭を心にかけているように、誰もが維盛との逢瀬を心にかけているのが羨ましいと実宗は言います。「ただ今の御心のうちも、さぞあらんかし」(あなたの今のお気持ちもそうでしょう)とすねるので、右京大夫はこう書きつけて差し出します。
中々に花のすがたはよそに見て あふひとまではかけじとぞ思ふ
(維盛さまの華やかなお姿はよそに見ておいて、あの方との逢瀬までは願いませんよ)
華やかな祭と輝くような平維盛。「葵」と「逢ふ日」の掛詞で、戯れとも本気ともつかない恋のさや当てじみた趣向が面白い。ちなみに作者右京大夫は、この維盛ではなく維盛の弟、資盛の恋人でした。
(広告)葵祭の頃は「世のあはれも人の恋しさもまさる」と兼好法師は言った
1183年、平氏は都を追われ、二年後壇ノ浦で滅亡します。徳子は入水したところを引き上げられ、捕らえられて出家します。維盛は平氏の集団から脱落し、熊野沖で入水自殺を遂げました。かつて光源氏と称された人の自殺に右京大夫は深い衝撃を受けます。そして恋人、資盛の死。
王朝の美意識とともに平氏の貴公子たちの輝きとその滅びを書いた『建礼門院右京大夫集』は、去っていった人々への追悼、追憶の集として読み継がれています。
灌仏のころ、祭りのころ、若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ(『徒然草』)
若葉が茂る賀茂祭の頃は世の情趣も人の恋しさもまさる、と兼好はいいます。皐月晴れの空が青く澄みわたり外界の明るさが増すほどに、思う人に逢いたい気持ちも明瞭になってゆくようです。
コロナ禍で葵祭の行列は二年連続中止されますが、祭そのものは変わらず連綿と続いてゆきます。かつて「葵」と口に出せば「逢ふ日」という意味が立ち上がった、そのような祭をもち、そのような思いの続きの中にいるのだと、何も変わらず信じています。
この記事を書いた人
入江 澪