秋愁いの京都まちなか散歩を想う~秋風情を心に描きながら~

京都 祇園界隈の紅葉

まだ梅雨も明けずこれから夏を迎えるという向暑のこの時期なのですが、もう秋が訪れる際のことを考え始めています。

2021年、コロナ禍やオリンピックを開催する・しない云々、メディアを占めているのはこうした内容ばかりで、おそらく日本だけではなく世界中の人たちが鬱屈とした気分を感じていることでしょう。

京都では、葵祭や祇園祭の巡行が中止となり、どことなく意気消沈といった想いがあります。

ここで考えたのが先にもお示ししました一つ季節を先送りして秋になれば、まちやくにの様相も社会の流れも爽やかさを取り戻しつつあるのではないかという希望的観測が浮かんできます。

お盆の五山の送り火も過ぎ、地蔵盆の子どもたちのはしゃぐ黄色い声も遠のき、ふっと秋風が吹くという季節の移ろいと秋風情を今からイメージするという試みを始めています。

晩夏から秋になると朝晩の風が涼しく、夜は虫の声に心が和み、澄んだ月を見上げると秋という季節を感じるのですが、この季節に伴う、どこか寂し気な雰囲気、愁いを意識し始めます。

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秋愁いの京都まちなか散歩

秋の心と書いて「愁い」

やはり秋は、愁いを感じつつ感傷主義に浸りやすくなる季節なのだと思います。

「秋愁い」。

春に生を始めるあらゆる生き物は夏でさらに大きく活動しますが、秋になると冬というある意味活動を徐々に薄めていく季節に向けて準備を始めることになります。

動から静への分岐が秋なのです。

この分岐点に秋愁いが重なります。活発に動き回っていたのが、ふと秋風を感じて少しずつ動きを控えていくことに気づくと、人は本能的に秋愁いの訪れを感じるのだと思います。

この秋愁いですが、真っ赤に染まった紅葉の散り様が脳裏にあり、春の桜が散るのとは異なった愁いの風情と寂しさが伴っているようにも感じられます。

つまり、ちょっと寂しいなあという気持ちや、まちの季節の色どりが褪せていくということに通じる冬の訪れに対する心細さにも似た情が感じられるのです。

今年は特に秋の訪れに注目し、じっくりと秋愁いを心象風景に重ねながらまちなか散歩を試みようと考えています。

京都 御所の紅葉

もちろん深紅に色づいた紅葉を観に行くためでもあります。

一つ気づいたことがあるのですが、春に咲き誇った桜は秋には夕焼けのような彩に染まります。

桜紅葉(さくらもみじ)」という言葉で表現されるとのことですが、これでまちなか散歩に訪れる行き先が決まりました。

つまり、春に咲き誇った桜を秋に再度訪れ、春とは違った風情や風景に逢いに行くということです。

春に西陣界隈、桜出逢い散歩で訪れた寺社に足を運ぼうと考えています。

立本寺 → 椿寺 → 雨宝院 → 妙蓮寺 → 水火天満宮 → 妙顕寺

源光庵の2つの窓、天神さんや等持院、御所でも秋愁いを感じつつ訪れたいと考えています。

京都御所 建春門前の紅葉
京都 源光庵 悟りの窓・迷いの窓 

秋愁いを感じながらの京都まちなか散歩、いかがでしょうか。

少し寂しさに似た情感の中で、もの思いに耽りつつまちを歩くのも趣があると感じているのは私だけでしょうか。