まちなかの町名が歴史を浮き彫りに!未だ残るみやこの面影

仮想平安京を散歩する

少し想像力を豊かにして、千本丸太町の大極殿址の前に佇んでいると想定し、平安時代に想いを馳せ大内裏散歩をしてみようと考えています。

平安京大極殿址

現代地図と歴史地図を重ねた新発想の地図、「京都時代MAP平安京編 新創社編(光村推古書院)」とにらめっこをしながら大内裏の中をぐるぐると廻って行きます。

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このような突飛な発想となったのは、頭の体操のような一種の遊びではなく、たまたま私が住まう地の町名が平安京大内裏のとある中央官庁と同じで、それならば界隈もそうした町名が未だ残り、みやこの面影を追体験できるのではないかと感じたからです。

平安京の大内裏は、現在の千本通を中心とした上京区と中京区に位置します。朱雀大路は、道幅84メートルという想像を絶するような大路で、どのように例えてよいのか判断に苦しむところです。

大内裏の範囲としては、現在の通りで北は一条通、南は二条通(私見としては、押小路(おしこうじ)通・御池(おいけ)通が相当するのではと考えます)、東は大宮通、西は御前(おんまえ)通に囲まれたこれも広大な宮域であったと想像できます。

話は少し逸れますが、「御池通」と「御前通」について由来をご紹介しましょう。

「御」という字があるので、気高い、尊いことに関係があるのではと推測がつきます。

御池とは、二条城の南にある「神泉苑(しんせんえん)」の中に通じる道で、かつての神泉苑は広大な苑地だったと言われています。

また、弘法大師が雨乞いの祈祷を行なった霊場とも伝えられています。

御前とは、御前通を真っすぐに上がってみてください、雄大にそびえる鳥居が見えてきます。そうです、天神さんに通じる通りで北野天満宮の門前通りという意を含んでいます。

それでは、現代MAPと平安前期地図を注意深く重ね合わせながら散歩を始めてみましょう。

平安神宮応天門
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省から浮かび上がる現在の町名

大内裏に置かれた中央官制は、ご存じの通り二官八省を基本とした体制で、二官には神祇官と太政官が置かれました。

八省には、中務(なかつかさ)省・式部(しきぶ)省・治部(じぶ)省・民部(みんぶ)省・兵部(ひょうぶ)省・刑部(ぎょうぶ)省・大蔵(おおくら)省・宮内(くない)省が置かれました。

中務省

中務省は、天皇に侍従し、詔勅の作成・宣旨、伝奏などの宮中事務や位記・戸籍などの事務を所管し、現在の総務省と宮内省を合わせたような省になるでしょうか。

大極殿からは、南東に位置し、お隣は安倍晴明が出仕していた陰陽寮(おんみょうりょう)がありました。

中務省は、現在の丸太町美福通下ル、二条公園の少し北西にあったと思われます。

この「中務」ですが、現在も中務町(なかつかさちょう)として残っています。

式部省

式部省は、文官の人事や朝儀・学校などを所管し、現在の文部科学省に相当するのではないでしょうか。

大極殿からは、南に位置し朱雀門の近くにありました。朱雀門を出ると大学寮があり、弘文院、勧学院、延命院が並ぶアカデミックな文教地区だったと思われます。

式部省は、現在の京都府立朱雀高校あたりに相当し、今もなお「式部町(しきぶちょう)」として残っています。

また勧学院も、「勧学院町(かんがくいんちょう)」として現存し、かつての文教地区の西向い側には立命館大学朱雀キャンパスや佛教大学二条キャンパスがあり、現在もアカデミックエリアとしてその流れを継承しているかのようです。

治部省

治部省は、諸氏の族姓や葬事・仏寺・雅楽・外交事務を所管し、外交事務や外国使臣の接待を行っていたとのことで、現在の外務省の役割も担っていたのではないかと思われます。

大極殿からは、南西にあり豊楽院(ぶらくいん:国家的な饗宴が行われた場所)の南隣りにありました。

京都市立朱雀第六小学校のあたりが、治部省だったと考えられます。

民部省

民部省は、民政特に租税・財政を所管し、現在の財務省と国税庁を合わせた役割を担う極めて重要な省だったのではないでしょうか。

民部省は、大極殿から南東にあり、美福門近くに主税寮がありました。

現在も「主税町(しゅぜいちょう)」として残っており、概ね京都市立二条中学校(二条城の西向い)に相当すると思われます。

兵部省

兵部省は、武官の人事と軍事全般を所管し、現在の防衛省に該当すると考えられます。

大極殿からは南に位置し朱雀門近くにありました。ちょうど朱雀門から入って東が式部省、西が兵部省となります。

少し位置が掴みづらいのですが、スーパーマーケットライフ二条駅前店あたりだったのではと推測しています。

刑部省

刑部省は、司法を所管しますので現在の裁判所、最高裁判所に相当するのではないでしょうか。

大極殿からは、南西にあり治部省と同じ並びにありました。

治部省と同じく京都市立朱雀第六小学校のあたりだったと考えられます。

大蔵省

大蔵省は、財宝・出納・物価・度量衡などを所管し、現在の財務省に該当すると考えるよりもその名の通り財宝を納める蔵の管理や出納に重きを置く省庁で国家財政を担う(民部省が所管)というような重要な役割は無かったとされます。

よくよく考えましたが、大蔵省=財務省という現在的な関係はあてはまらず、現在のどの省庁に該当するかは判断がつきませんでした。

大極殿からは北に位置し、やはり大きな蔵が並んでいたのでしょう、現在の京都市立正親(せいしん)小学校から西へ立本寺までの広い敷地を占めていました。

平安京大内裏 大蔵省跡

宮内省

宮内省は、宮中の衣食住・財物その他の諸事を所管し、現在の宮内省に相当すると考えてよさそうです。

大極殿からは、南東に位置し太政官の向いにありました。

鵺池碑(源頼政が、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎、鳴き声がトラツグミという怪鳥鵺(ぬえ)を弓で退治し、矢の鏃を洗ったと伝承される池跡)が二条公園内にあるのですが、この界隈が宮内省だったのではと推測しています。

ちなみにこの地も現在は、主税町です。

 

あと省ではありませんが、現在左馬寮町(さまりょうちょう)右馬寮町(うまりょうちょう)として現在にはっきりと残っている町名がありますのでご紹介します。

大内裏の西南に位置し、朝廷が保有する馬の飼育や調教を所管していた左馬寮と右馬寮がありました。

現在の京都市立朱雀第二小学校から御前通を下り、朱雀公園近くまでの広大な地が該当したと考えられます。

さらにもう一つ。

大内裏を朱雀門から出て朱雀大路を下った所に京職(きょうしき)が置かれました。

京職は、京都の司法・警察、民政を司り、朱雀大路を挟んで左京職、右京職がそれぞれ設置されました。

現在のJR二条駅東口を少し下がった所に右京職、その向かいに左京職があったと思われ、この京職に由来する「職司町(しょくしちょう)」が残っています。

 

イメージの中で平安京の大内裏をあちこち散歩しました。

平安京復元模型

今も町名として残る地を思い浮かべると、「ここにあったんや」と我知らず頷きながら感じ入ってしまいます。

古地図と現在の地図をじっとにらめっこしてみるのも興味深く、歴史好きな方にはおすすめです。一度お試しになってみてはいかがでしょうか。

ご参考までに
https://www.kyoto-arc.or.jp/heiansannsaku/jurakudai/img/1kyu-1.pdf

※今回、私の技量不足で地図を記事に掲載できればもっと分かり易かったのにと悔やまれます。大変恐縮ですが、お詳しい方、ご教示いただければと存じます。