京暮らしの記憶からひも解く京都ならではのならわしあれこれ

京都に生まれ育ち、既に50数年となりますが、現在は中京区で暮らしているものの、もともとは上京区の西陣の出ですので、今もなお西陣への回帰が心の奥底にこっそりとあります。

「上京も中京も隣り同士の区やさかい、あんまり変わらへんやん」と小言をいただくような感ありですが、実は微妙に違うと感じています。

他府県の方からすればとりとめもないような非常に小さな事とお感じになられるのですが、京暮らしという視点からするとまただらだらと駄文を続けてしまいそうになるので、距離的にはそれほど離れていないまちなかでも習慣やならわしが異なる点については別のページに譲るとこととします。

京町家というと少なからず憧憬の念を抱かれる方も多いのですが、西陣の町家長屋の片隅で暮らしておりましたので、いわゆる立派な京町家のお店(たな)の「ぼん」とは全く異なります。

ただ幼いころに躾けられた京都のならわしが今も沁みついていて、ふと何かの折に思い出すことがあります。

今回は、京暮らしの幼い頃の記憶をひも解き、京都ならではのならわしをあれこれご紹介します。

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京都ならではのならわし

玄関の敷居を踏んではいけない

かつて暮らしていた長屋の入り口は引き戸で、少し高い敷居に戸が設えてありました。

ある日のことですが、この敷居を踏んで外へ出ると、おやじがからきつく叱られたことを記憶しています。

「敷居は踏んだらあかん。敷居は親の頭なんや。敷居を踏むということは、親の頭を踏みつけることになるさかい、絶対踏んだらあかん」

おくどさんの布袋さんと火迺要慎のお札

物心がついた頃には、おふくろがガスで煮炊きをしている光景がありました。

けれども、ガスコンロの下にはかつて使っていたのだろうと見られる「おくどさん」(かまど)の跡があり、珍しく感じていたことを記憶しています。

そのおくどさんの上には棚があり、荒神棚と言うそうですが、ここに布袋さんの人形がいくつも並べてありました。おくどさんを護り、火難除けの意味合いがあったのだと思われます。

釜戸(おくどさん)
布袋さん

もうひとつ、京都で料理屋へ行くと「阿多古祀符火迺要慎(あたごしふひのようじん)」と書かれたお札(護符)が台所に貼られているのをよくお見受けされると思います。

これは、一般家庭の台所も同じで必ずと言っていいほど貼っているはずです。

火を使う台所ですから、火に気をつけることと愛宕さん(愛宕神社)のご加護がありますようにという思いが託されています。写真はうちの台所のものです。

阿多古祀符火迺要慎(あたごしふひのようじん)のお札

門掃き

京都人の気質をよく示しているならわしだと感じています。

京都では、門掃き、水撒きを行い、家の前の道を掃き清める習慣があります。

けれどもお隣りの所まではしない、つまりよそさんの領域には立ち入らない、けれども人間関係をうまく流れるようにするためにお隣の家の前をほんの少しだけは掃き、深入りはしないという点が京都人の気質とまちなかで暮らす知恵をよく示していると言えそうです。。

養老先生の「京都の壁」、思い出しました。

『ここから先は入り込まない』という一線を自分で決めています。

これが、京都人の発想に近いらしいのです。

どんなに親しい人であっても『これ以上、立ち入ってはいけない』という一線を引いて、そこから先には入り込まない。その一線を無視してどこまでも入り込むと、『厚かましい人』になってしまいます。そこには京都という地域の共同体の壁が存在するのです。」

これは、よそさんへのいけずではありません、暮らしの知恵なのです。

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新しい履物を履いたまま外へ出ない

これは、小学校のころ今度はおふくろにきつく叱られました。

真新しい靴を買ってもらい、早速家で掃き、そのまま外へ出かけようとしたその時、

「靴履いたまま行ったらあかん」

行儀が悪いだけではなく、昔の葬式では、棺桶を運び出すのに藁ぞうりを履いたまま家の中から外へ出たということに関係し、縁起が悪いとされた由縁です。

また、死んだ人にも藁そうりを履かせ、そのまま家の中から外へ出るということで、新しい履物を履いたまま外へ出ることへの戒めが込められています。

十三まいりの後、渡月橋を渡りきるまで振り向かない

これは、「十三まいり~渡月橋を渡りきるまで決して振り向かない~」でもお示ししましたが、せっかく授かった「大人の知恵」が渡月橋を渡る途中で振り返るとこれを返してしまうことになるのです。

法輪寺

鍾馗さん

これも、「にらまれる、鍾馗さん~京都まちなか散歩が楽しくなる~」でお示ししました。

ぶらぶらまちなかを歩いていると、屋根瓦からきっちりにらまれます。

一度鍾馗さんを意識して散歩してみてください。きっと視線が痛いなあと感じるはずですから。

鍾馗さん

霊柩車を見たら親指を隠す

お葬式や霊柩車を見ると、握りこぶしの中に親指を入れて隠す、幼い頃は必ずやっていました。

親指は自分の親のことで、親を死から遠ざける(親を死なせてはならない)というならわしです。

今では、まちなかでお葬式をされている家や霊柩車を見ることはほとんどなくなりましたが、極めて稀に出会うと自然とというより無意識的に親指を隠していることがあり、自分のことながら驚きました。

京都ならではのならわしあれこれ、いかがだったでしょうか。

それは迷信めいたことばかりとお感じになる向きもあるかもしれませんが、これが今に通ずるふだんの京都、まちなか京暮らしなのです。

    

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