紫式部もさらりと一筆?スマホの代わりに筆を執ってみる非日常
2024年の大河ドラマは「光る君へ」ということで、紫式部が主人公となるのですが、「源氏物語」を書き上げた創造性や創作に長けた女性と理解しています。
今回は光る君へから紫式部、源氏物語と意識が流れて、さらりと執筆されたであろう、その筆記用具としての「筆」に関心が留まりました。
個人的には、紫式部というと御所の東隣りに位置する蘆山寺が思い浮かび、この地に邸宅跡があって、源氏物語を執筆されたとのことです。
庭には可憐に咲く桔梗の花が、美しく品のある紫色に咲き誇り魅了されます。
原文で源氏物語を見たい、読んでみたいと感じてしまいますが、まず判読する能力がありませんので不可能だと想定しています。
源氏物語の世界を知ってみたいが
せめて物語の世界に近づこうと以前に「NHK「100分de名著」ブックス 紫式部 源氏物語」を手に取り理解を深めようとしました。
(広告)しかしながら、光源氏にまつわる人間関係、女性関係が極めて複雑で、読み進めて不明点が出る度にページを戻っての繰り返しとなり、結局脳裏に残ったのは、やっぱり光源氏は女たらしでした。きっと、さまざまにきつくお叱りを受けること覚悟しています。
テーマの筆に戻るのですが、紫式部が生きていた時代、平安時代は筆が筆記用具で、日常(つねひごろ)使っていて、天皇も貴族も武家も僧侶も皆、筆を執ってさらりと認めていたのだと想像しています。
書写、習字、書道
筆を執るという点を思い浮かべながら時代を大きく進めて、昭和の小学生の頃となりますが、習字の時間がありました。私たちの頃は、習い事といえばそろばんかお習字でした。
現在はどうなっているのでしょう。
調べてみますと、小学校の授業カリキュラムで「書写」という科目があるそうです。
文字を正しく整えて一字ずつ書き写すことが授業の目的で、小・中学校の国語科の科目の一つとのことです。
そうすると、書写、習字、書道の違いは?という疑問が湧いてきますが、一例としてこうありました。
書写:文字を正しく整えて一字ずつ書き写す 学校のカリキュラムの一つ
習字:正しい筆順でお手本に倣って美しい字を書くこと 習い事の一つ
書道:筆と紙によって自己表現する芸術
どうでしょうか、私は分かったような分からないような感覚で判然としませんが、とりあえず納得することとしました。
とかく「字を書く」ことは、とても重要であると認識しています。
また、個人的な談となってしまうのですが、記憶を辿ると、おやじはすきま時間があれば硯に墨を磨り、細筆でよく新聞にはさまれている広告の裏などに字の練習をしていました。
小学校の頃、漢字の書き取りで間違いや雑な字には厳しく指摘されて目の前で書き直すように躾けられました。
「勉強でけへんでも(できなくても)、字がきれいやったら、かしこう(賢く)見えんにゃ!(見えるのだ)」
どこか極論的ですが、昭和40年代の家庭の教育方針を垣間見るような気がします。
(広告)寺町通沿いの老舗
さてそんな想いで、筆のことをもう少し考えてみました。
三十数年前のこと、大学の恩師が定年退職される際に、筆・硯セットを買ってお渡ししたのですが、結構値が張りました。
そのお店が、寺町通沿いの老舗、龍枝堂(りゅうしどう)であったとずいぶん後になって気が付きました。
青二才だった私には風格があり過ぎて敷居が高く気の張る、緊張するお店でした。
今も、どのように伝えて買ったのか記憶にありません。
(広告)光る君へを契機に
来年、「光る君へ」が始まったら、龍枝堂で1本細筆を買って、墨を磨って字を書いてみようかと考え始めています。
紫式部をはじめ平安時代の人たちのようにさらりとは決して行かず苦渋するでしょうが、きっと字を書くことの大切さを再発見するはずだと確信しています。
後生大事に携えているスマホを一端手から離し、すぐ見てしまうことをやめて、筆を執ることで非日常の中に身を置いてみる。何かが変わるかもしれないしあるいは想いつくかもしれない、また何も変わらないかもしれない。そんな面持ちです。
忘却してしまったことが多すぎるとよく後ろを振り返ってしまうのですが、古くさいと忘れってしまったものの中に意外と新しい発想が見つかるかもしれないと考えています。
スマホの代わりに筆を執ってみる非日常、いかがでしょうか。
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