幕末京都の針供養 ~慶応三年十二月八日、女たちの「事納め」
針供養の針は蒟蒻に刺すか豆腐に刺すか~「守貞謾稿」の記載から
先日、知人が針供養をしてきたそうです。
針供養は平安時代から続くといわれる年中行事で、折れた針や錆びた針などを豆腐や蒟蒻、餅など柔らかいものに刺し、これまでの感謝をこめて供養します。京都では主に蒟蒻、関東では豆腐が多いといいます。
「蒟蒻 京坂にては一つ二文、江戸は八文」
幕末に京・大坂、江戸の三都を比較考証した喜多川守貞は、その著「守貞謾稿」にこう書いています。
「京坂の諺に「坊主と蒟蒻は田舎がよし」と云ふことあり。すべて三都より他制に美あり。京坂にては「はちまんこんにやく」を賞す。江州八幡の製を良とす。江戸にては下総中山村の製を賞す」
「坊主と蒟蒻は田舎がよし」が面白い。江戸に比べて京都・大坂の蒟蒻の安さに驚きます。ちなみに豆腐は値段よりも、まずは京都・大坂の品質の良さが絶賛されています。
「今制、京坂(の豆腐は)、柔らかにて色白く味美なり。江戸、剛(こわ)くして色潔白ならず、味劣れり。しかも京坂に絹ごし豆腐と云ふは、特に柔らかにて同価なり。きぬごしにあらざるも、持ち運びには器中水を蓄へ、浮かべて振らざるやうに携へざれば、忽ち(たちまち)壊れ損ず。江戸は水なくても崩るること稀なり…」
そもそも京都の豆腐は当時からわらべ歌にも歌われる名物です。京坂(京・大坂)とはいえ、これは南禅寺の湯豆腐や祇園豆腐などを擁する京都があればこその評価でしょう。
京都は蒟蒻に針を刺し、江戸は豆腐に。どうもそれぞれ手軽で安価なほうに刺している感がありますが、当時の針仕事は主に女性のものでしたから、女たちは身近で粗末な柔らかさに古針を刺し、自分と針の働きを振り返りつつ手を合わせていたように思います。
幕末京都、激動の世を女たちも生きていた
江戸幕府末期、京都には全国から人がどっと流れ込みました。往来の激化はそれぞれの土地をも激しく変化させたはずで、いま記録しておかねば残らないかもしれない、そんな切迫した思いが「守貞謾稿」の東西考証をよりいっそう克明なものとしています。
変わりゆくものと伝統とが、これほど強くせめぎあった時期は他になかったでしょうし、その中で人と人との関わりもまた、ひときわ激しく切実なものとなったと思われます。多くの志士や浪人がどっと京都になだれ込んだ幕末、女たちも否応なくその激動に巻き込まれてゆきます。それは記録に残る遊郭の女だけでなく、ごく普通の市井の女たちも同様だったでしょう。
(広告)慶応三年十二月八日、京都の女たちの針供養は大きな事納めだった
京都の誇る針の名店、三條本家みすや針が、幕末、池田屋とごく近くにあったことは地元ではよく知られています。池田屋に潜伏する長州・土佐の尊王攘夷派に新選組が斬りこみ殺傷したあの池田屋事件で、新選組は一気に天下に名を挙げますが、それは営々と続く針仕事の世界の至近距離にあったのです。
今年もみすや針のホームページには十二月八日に針供養した記事が出ています。十二月八日は二月八日とともに「事八日」(ことようか)の日。「事八日」は古来事始めや事納めをする日で、西日本、京都では主に十二月八日が「事納めの日」、役目を終えた針の供養をする日です。
そういえば慶応三年十二月八日の京都はどんな感じだったのでしょうか。今からおよそ百五十余年前、何も変わらず折れ針を蒟蒻に刺し、手を合わせて祈っている女たちの姿が目に浮かびます。
その翌日の十二月九日、王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府は消滅しました。薩長を中心とした新政府が発足し、事態は戊辰戦争の悲劇へ突き進んでゆきます。
思えば、あれは過ぎ去ってゆく何かを見送る儀式であったような。慶応三年の針供養、幕府終焉の前日の大きな大きな事納めでした。
(広告)この記事を書いた人
入江 澪