これで限界ですか?~値切りに対する京都人の本当の心理は~
これで限界ですか?
スーパーやホームセンターにはよく足を運びますが、当然のことながら値切ることはまずしません。
商店街の八百屋や果物屋、肉屋で
「まけといて」「ちょっとまけてえなあ」
という場面も見たことがありません。
しかしながら、10万円を超えるような電化製品などを買う時は、値切りはしないものの
「これで限界ですか?」
と時折聞いてしまうことがあります。
たいていの場合、
「これで精いっぱいです。勉強させていただいてます。」
という返事で相手も値を下げることはありません。
もちろんそれ以上後追いすることなく、さらに値切ることを口にすることもありません。
値切る意図は全くないけれども、やはり値段にちょっと納得いかない場合には、
「なかなかええ値段ですなあ」
と相手を褒めるようなことをいってしまうこともあります。
ええ値段の裏返しは、
「ちょっと高こないか(ちょっと高くないですか)」
という気持ちがあって、基本値引きされることはまずないのですが、この雰囲気ないし空気感に接して
「また勉強させていただきます。また、ごひいきに。おおきに、ありがとうございました。」
といわれれば、この婉曲的ないいまわしと京都人の心理をわかっておられる商売人の気概というものが感じられて、それではまたの機会に買おうかとなります。
これは、京都人特有の人付き合い、また寄せてもらいますという点も含まれているといっていいと感じています。
京都人特有のいい回しや心の機微が理解できず、ただ不快な顔をする店員のお店には、おそらく二度と足を運ぶことはないでしょう。
このような身勝手さに思えるような振る舞いが、京都人はイケズといわれる一因となっているのかもしれませんが・・・。
「いわへんかったらよかった」「聞かへんかったらよかった」
「これで限界ですか?」といった、その後の心理は、「いわへんかったらよかった」「聞かへんかったらよかった」で、そこには少し後悔の念があります。
堅苦しく、理屈っぽいですが。
モノを売る側も買う側も、それぞれの品格を持って接しているのであって、売る・買うという中に融和のある関係性、おたがいに「おおきに!」といえるように無意識ながらもその立場や存在を感じているのではないか、と考えています。
あまたある老舗が並ぶまち
もうひとつ。
京都には、創業200年や300年の老舗が至るところにあります。
平家や源氏や、足利やら信長、秀吉やら、薩長やら、よくも何度もまちを焦土と化すようなさんざんたる悪行を耐え忍んだ中で、お店を継承するという心意気で今に至っている、こんなお店がまちなかのそこかしこにあります。(敬意を込めておはしますといった方がいいかもしれません)
こうした背景を感じつつ、暖簾をくぐった老舗の和菓子屋。
伝統と職人の心意気(気質:かたぎ)を感じる品物に対して、
「すこしまけていただけますか」「お菓子をひとつおまけしていただけますか」
といえる方は、別な意味で豪傑といえるでしょう。
そこには、モノを売る・買うの品格は、感じられませんね。
「このお値段で限界ですか?」ともいえますか?
恐らく、伝統と京風情ただよう老舗の中で、
「いわへんかったらよかった」
と感じるはずです。
つらつらと記してきましたが、京都人と値切り、いかがだったでしょうか。
モノを売る・買うの品格の中に京都人は、後で後悔するような値切りより、
「また来てくれはった(買うてくれはった)」とお店が感じてくれるような和みを作る方に心理は傾いていると個人的には信じています。
瑠璃光院のように全く何の阻害するものがなく、ありのままを映し出せるような、つまり腹の内をそのまま示すことができるような人が実直で誠実な聖人ともいえるのですが、私のような凡庸とした者には映し出した画にくもりやぼかしがあって、腹の内をくっきりと見せようとはしません。
これは、値切りを仕掛け仕掛けられている場面だけではありません。また、歴史を背負わされているまちに住まう京都人だけでもありません。
人が発するたったひとことが、人としての品格やその場の空気を澱ませてしまうような怖さが私たち人間にはあると思うのです。
いつの間にか記事の方向性がズレてしまったようです。申し訳ありません。
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