鎌倉で陰陽師が勢いづく時代、「吾妻鏡」で和田合戦と実朝の身にせまる怪異を読む

陰陽師

陰陽道で家を守る ~頼朝の寓居は安倍晴明の霊符で焼けない邸

晴明神社 安倍晴明の像と拝殿

「吾妻鏡」治承4年10月9日の記述によれば、源頼朝が鎌倉に入る前の寓居にした邸は安倍晴明が鎮宅符を貼ったため火事になったことがない邸であったといいます。

鎮宅符は陰陽道の霊符のひとつ。むろん晴明が貼ったというのは伝説ですが、鎌倉初期の説話集「古事談」にも似た話が出ています。

道長の孫藤原師実が新造した花山院は火事に遭わない邸であったとか。
寝殿の上長押に北斗七星の節目があるからだとも、晴明の息子安倍吉平が護符を置いたためともいわれ、後日この邸の天井からは人形(ひとがた)と思われる厭物(まじもの)が多数見つかったとか。(巻6 花山院の厭物の事 )

陰陽師は天文、方位、土地に関する専門家として新築や引っ越しなどにも関わり、災いの侵入を防ぎとめたといいます。

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建保1年『吾妻鏡』、和田義盛の乱による御所の焼亡と新御所造営

建保1(建暦3 1213)年5月2日、鎌倉幕府の重鎮、和田義盛が挙兵しました。
大河ドラマでは北条義時の変貌が書かれましたが、まさに義時の挑発による挙兵でした。和田勢は幕府を猛攻し御所に放火、御所内の建物は一宇残らず焼け落ちました。市中での激戦の末、義盛は討ち死にし、和田は滅亡します。

6月末、新御所を造営する協議、8月3日上棟。8月20日、実朝は新御所に入り、大々的に陰陽道の儀式がおこなわれました。

……大須賀太郎道信黄牛を牽く(中略)御輿南門に入御するの比、陰陽少允親職、へんぱいに候ず。水火の童女を相具せらる……戌の刻、七十二星西嶽真人の符を、新御所の寝殿御寝所の天井の上に置かる。 

黄牛は鎮宅の主神である地神(土公)の乗物。独特の歩行、反閇(へんぱい)で悪霊を鎮めます。御所の天井に置かれた「七十二星西嶽真人符」は、藤巻一保氏の「安倍晴明占術大全」(学研)によればもと道教のもので凄まじい霊力をもつ符だといいます。

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新御所への引っ越し直前、三代将軍実朝が遭遇した怪異

鎌倉時代、陰陽道の活用は三代実朝の頃から激増するといわれています。
実朝の京都びいきという以上に、天変地異の読み解き、祓いや鎮めなどの技能が期待され、徐々に施政の一部として機能し始めたということであるようです。

和田が滅ぼされたこの年の「吾妻鏡」にはまことに異様な雰囲気があります。激戦、死者と捕虜たちの長い列挙、以前滅ぼされた一族による謀反とその誅殺などの記述に、相次ぐ地震と怪異の出現が入りまじり、陰陽道の儀式が埋め込まれています。

三月十日、頼朝の法花堂の後山で「光物」。長さ一丈ばかりで遠近を照らしてしばらく消えなかったとあります。六月二十九日も「光物」。

場所の記載はなく流れ星か。こうした怪異が実朝の身辺に現れるのが八月二十日の新御所への引っ越し直前です。

八月十七日、京都の藤原定家から実朝のもとに歌の書が届き、実朝は非常に喜びました。

怪異

「十八日丙戌。子刻。将軍家南面に出御。時に灯消え人定まり、悄然として音なし。ただ月色蚕思、心を傷ましむるばかりなり。御歌数首、御独吟あり。丑の剋に及びて、夢のごとくにして青女一人前庭を奔り融る。頻りにこれを問はしめたまふといへども、つひにもって名のらず。しかるにやうやく門外に至るの程、にはかに光物あり。すこぶる松明の光のごとし

灯火が消え人が寝静まった夜更け、和歌を吟ずる実朝の前、若い女がまるで夢の中のように庭を走り抜けます。実朝は繰り返し問いかけますが女は名乗りません。
門外に至ったとき急に光る物が現れます。それはまるで松明の炎のように明々と輝いています。

さっそく陰陽師によって死者の魂を鎮める招魂祭。
翌十九日、大地震。そして二十日、新御所入りが大々的に挙行され、陰陽師による鎮めと災厄祓いの儀式が念入りにほどこされます。

初代頼朝の法花堂の裏山に現れた光物が、実朝の身に近づいてくるようでもあり、実朝の神経が何かに迫り来られているようでもあり、あやしく繊細な痛ましさを感じさせる怪異ではないでしょうか。

この記事を書いた人
入江 澪