素顔の京都と厚化粧の京都~おひとりからのしずかな京都~

先日、「今年こそは見逃すまじ!想いに願をかける~本満寺のしだれ桜」という記事をお示ししました。

今年は変なというより妙な気候で、2月までは暖冬、3月は寒の戻りと雨続きで桜の開花が遅れていました。

3月29日、京都ではようやくソメイヨシノの開花が宣言されました。

じっとこらえて待って本満寺に何度となく開花の偵察に行っていましたが、3月27日に訪れた際にはやっと1分咲きといった状況でした。

そして、本日3月31日本満寺を訪れ、迫力ある本満寺のしだれ桜に出逢うことができました。

20240331本満寺のしだれ桜

素顔の京都

このような変則的な季節の移ろい、春の訪れや桜にやきもきしながら、ぼんやりとしている中、先日思わぬ京都本を見つけました。

おひとりからのしずかな京都 柏井壽著

以前も柏井さんの書籍「京都のツボ」をご紹介しましたが、柏井さんは京都人の中でも京都の奥の奥をご存知の方で、知る人ぞ知る一目も二目も置かれた都人です。

さて、この「おひとりからのしずかな京都」の中で、少し驚きと共鳴した言葉が「素顔の京都」でした。

拙い当サイト京つねひごろのテーマとして、「ふだんの京都、まちなか京暮らし」を掲げていますが、サイトを立ち上げる当初、どんなサイト名とテーマにするのか方向性を見い出すのに結構な時間を要しました。

つねひごろやふだんの京都という言葉に代わるような言葉は無いものかと考えたものの思い浮かばず、結局そのままとしておりますが、厚化粧を落とした素顔の京都、普段着の京都という言葉に、ピンと頭から「!」マークが飛び出ました。

私の探していた言葉は、素顔の京都、これに近いなあと。

つまり、京都のまちなかでふつうの人たちがふつうに暮らしている生活、ならわしやことば、食、風情など素顔の京都という端的な言葉できれいにさっぱりと表しておられる、私自身の頭がすっきりと片付けることができました。

厚化粧の京都

厚化粧の京都とは、ある意味京都を派手に装うとしていることで、京都の本質が見えにくいよそ行きの姿という意味でしょうか。

決してイケズなことをいっているのではありません。

国際観光都市となった京都に数多存在する豊富な観光資源の活用でまちが潤うことは、現在のありのままの京都の一面です。

ただ、国内外からわざわざ京都を訪れる方たちに厚化粧の京都が本当の京都であると、若干錯覚されているようなことは残念だと感じます。

厚化粧も素顔も双方の京都を知っていただきたいという点とは矛盾となりますが、素顔の京都を知っていただきたいけれども、ふだんの京都にまでお入りいただくのは、このまちで暮らすものにとっては少し気持ちがしんどくなります。

いわゆるオーバーツーリズムです。

「京」、「京都」とついているけれども

厚化粧の京都、一つ「食」を例にしてみましょう。

もう20年以上も前の話になりますが、京都駅近くにあります大学の連合組織体、大学コンソーシアム京都に出向していたことがあります。

京都駅がすぐ側ですので、お昼ごはんは喜々として地下街のポルタによく出かけました。

飲食店街には、京や京都の文字が躍るように視界に入り、観光客の方たち向けの食事を提供しているのだなというのはすぐに理解できました。

たまたま入ったラーメン店。

店の風情は和を基調にしていて、京都をかなり意識していましたが、テーブルに置かれたラーメンには白味噌が入っていて、お味はう~んと唸るような感じであったのを記憶しています。

白味噌=京都ではないのでは感じつつ、これが京料理、京都の味とするのには疑問が残り、そんな思いで店を後にしましたが、今思えば厚化粧の京都の一例では?と振り返っています。

確かに京や京都を冠にしているものは、このまちではさまざまにありますが、京都というブランド力を誇張し、少なからず派手さを求めて意識している様子や広告的要素は、やはり眉唾です。厚化粧なのです。

それでは、このサイトにも京つねひごろと京がついてるやないかと痛いところを撞かれるご指摘があるかもしれませんが、素顔のままの京都に親しみひっそりとふだんの京都に暮らしている生粋の京都人が書き綴っているサイトと自負しています。

はてさて、このまちはこれからどうなっていくのでしょうか?

町家のある京都の風景
風情ある京町家

市長さんも交代されたので、行く末を少し静観しようと考えています。

素顔の京都=普段着の京都

これからもふだんの京都はこだわりつづけようと思っています。

ずっとこのサイトに根差してきた大切なテーマですから。