ローカルすぎるけれども~かつて千本通より西は畑だった?~
千本通=朱雀大路の西は?
極めてローカルな話、地域限定の話となります。
千本というのは千本通で、平安京における朱雀大路に該当します。南北に通る非常に長い通りで、北は千本北大路より上がったところの鷹峯、南は九条通まであります。
千本三条から東へ斜めに後院通につながりますが、こちらは千本通ではありません。信用金庫の西隣りにある、細く細く南に通じている通りが千本通です。
そんな千本やらまちについて、おやじと話したことがあります。昭和6年生まれのおやじは7年前に亡くなりましたが、かつてのまちなかについていろいろと聞かせてくれました。
とても興味深い話のひとつに、おやじが小学生の頃だったのか戦争が終わってからのことだったのか、今となっては定かではないのですが、平安京に大極殿があった千本丸太町界隈に住んでいた時のことです。
「千本より西は、けっこう畑がようけ(たくさん)あったで」と言っていました。つまり、千本丸太町より西には、まだまだ畑があったというのです。
右京は湿地が多く、平安京でも右京からまちが廃れていくのですが、その後、どうなっていたのでしょう?
いつものおなじみ、京都時代MAP 幕末・維新編(光村推古書院)で古地図の様子を探ってみると、今の千本旧二条から西は通りがなく、どうもまちがなかったのでは?と推察しました。
(広告)新選組が屯所をおいた壬生寺界隈も同じように、東西南北に通じている通りは極めて少なく、まちを形作っていたとは少し考えにくいです。
もうひとつ気がついたことがあります。
(広告)明治になって、首都が東京へ移る中、京都を活気づけようと町衆の意気込みで番組小学校が作られます。
図の通り、千本通の東側は明倫だとか教業だとか本能だとか、昔ながらのまちの名前がそのまま学区の名前となっていますが、千本通の西側は、朱雀第1から第8まで行政により分けられた学区という印象を受けます。調べると、昭和16年に朱雀学区が8学区に分かれたとのことです。
おやじが話していたことがなんとなく理解でき、おやじとの会話を懐かしく思い出していますが、今、千本丸太町に立ってかつてのこのまちの姿をおぼろげにぼんやりと想像してみるのも不思議と面白味を感じてしまいます。
また機会見つけて、まちの謎解きしてみよ!
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