デヴィッド・ボウイ「ヒーローズ」の歌詞を京都の庭から考える

デヴィッド・ボウイが愛した正伝寺の庭は借景の比叡山が美しい

正伝寺
正伝寺

デヴィッド・ボウイが京都を愛したことはよく知られています。

『Heroes』のジャケットを撮った写真家鋤田正義の『時間~TIME』(2021年 ワニブックス)には、京都の地下鉄だの路地だの市場だの喫茶店だの、驚くほど普通の場所で喋ったり走ったりちょっとポーズをとったり笑ったりしているボウイの姿がおさめられています。

デヴィッド・ボウイの京都通を語る逸話として有名なのが、80年代のタカラ酒造のコマーシャルでしょう。

この時ボウイ自身が、日本人もあまり知らないような京都の寺の庭をロケ地に指定して皆をびっくりさせたというのは、いろんなところで読むことができます。

この寺、正伝寺京都の西賀茂の山の上に位置する臨済宗の禅寺です。

庭は白砂の上に石の代わりにこんもりしたサツキを配し、その配置は「獅子の子渡し」というのだとか。

名高い龍安寺や大徳寺の庭などと比べるといささか素朴な感じもありますが、彼方にのぞむ比叡山が借景となり、そのはるかさと目の前の光景が相まって、白昼の静けさを感じさせます。  

庭の背景を外から借りてくる借景は、内と外とのつながりを印象づけ、われわれに深い広がりの感覚を与えてくれます。

今、この場にいる自分自身が、個から解き放たれて世界の関係性の一部となり、一種の宇宙的なひろがりを体験する、それが「庭を見る」ということであるようです。

デヴィッド・ボウイにとって「無」(ナッシング)は両義的な存在だった

I,I wish you could swim

 Like the dolphins,like dolphins can swim

Though nothing, nothing will keep us together.

We can beat them, for ever and ever

Oh,we can be Heroes, just for one day 

きみが泳げたらいいのにな

イルカのように、イルカが泳ぐようにね

何ものもぼくらを一緒にいさせようとしないけれど

ぼくらはやつらを打ち負かせるんだ、いつまでも

ぼくらは英雄になれる たった一日だけならば

                    (David Bowie『Heros』) 

田中純氏は『デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』(2021年 岩波書店)のすぐれた読み解きにおいて、この『ヒーローズ』の歌詞の「無(nothing)」という語がパラドキシカルな機能を果たしていると指摘しておられます。

田中氏の訳によると、上にあげた歌詞は、次のように両義的なものとなります。

Though nothing, nothing will keep us together.

「何ものもぼくらを一緒に結びつけはしないだろうけれど」

〔無(ナッシング)が ぼくらを結びつけるだろうけれど〕

We can be Heroes / We can be Heroes / We can be Heroes/ Just for one day

We can be Heroes

ぼくらはヒーローになれる

ぼくらはヒーローになれる 

ぼくらはヒーローになれる

たった一日だけならね

ぼくらはヒーローになれるんだ

  

We’re nothing.and nothing will help us

「ぼくらは何ものでもない〔ぼくらは無(ナッシング)だ〕

そして、何ものもぼくらを救わないだろう

〔無(ナッシング)がぼくらを救うだろう〕」

(「」内 田中訳)

禅を通じて研ぎ澄まされる「無」の直感というものがある

禅

デヴィッドボウイが京都を愛した理由のひとつにの存在を挙げる人たちがいます。 

ボウイはチベット仏教に惹かれた人で、カウンターカルチャーの大きな拠点ZENは総じて海外アーティストを惹きつけたものですが、『Bowie‘sBooks デヴィッド・ボウイの人生を変えた100冊』(2021年 亜紀書房)などを読むと、確かにかれが複数の方向から禅的な要素に触れていたのがわかる気がします。

「無」に対するボウイの鍛錬めいたものさえ感じさせる「ヒーローズ」の歌詞は、時に禅を連想させます。

「いま・ここ」を重んじ、悟りに導く禅は、パラドキシカルな言葉のアートを使うからです。 

ちなみに上記のボウイの『100冊』には、やはり禅に傾倒したジョン・ケージの『サイレンス』などが入っています。

ケージに影響を受けたアンビエント音楽のブライアン・イーノはボウイの盟友ですが、今夏京都で催されたイーノ展の活況や、また、やはり縁ある坂本龍一がこの分野できわめてすぐれた作品を生み続けていることなどを思うと、ボウイが解放され「無」に戻った後もなお、深い精神的な繋がりが脈々と生きているのを感じます。

無がわれわれを救い、無がわれわれを結びつける。庭の向こうにはるかな山影を望むように、わたしたちもまた豊かな関係性の広がりの中にいると思うのです。

この記事を書いた人
入江 澪