「人(ひと)の間(あいだ)」に入る~独りを我慢しない~

京都に生まれ育って、50数年。「京都から出たことがない生粋の京都人」といえば、「京都」という熨斗がついているのではとお感じになる場合もあるでしょうが、いえいえ違います。

私はお公家の出でもなんでもありませんが、京都から離れることをことさらに嫌ったお公家さんとは、京都の人は地元志向が強く、京都市内での進学・就職にこだわる方が少なくはないという意味です。

私も、そのひとりです。離れられない、いえ、離れたくないのです。なんと閉鎖的な、とお感じになられる方も多々あると思いますが、このまちの魔法?にかけられたようにこのまちで足踏みしていることが心地いいのです。

ところで、京まちなかというと以前の「京都ぎらい」にもお示ししたように、また洛外と洛中の話になるので、ここでは触れません。

私は、この京まちなかに暮らしていますが、近ごろ「京まちなか独り」も悪くないと感じてはいます。

が、心に素直に問うと実は、違うという返事が返って来ます。

もちろん、「京なちなか独り」といっても、まちの学区に所属し、町内にも所属しているのです。

ご近所つきあいも、今となっては希薄ですね。お年寄りの方たちとは、世間ばなしのひとつもしていましたが、今はあいさつぐらい。

町内やご近所のつきあいは、大切なのですけどね。世相が変わったというか、世知辛さがさらに増したというか、人間関係を避けるような感じがします。

ふと、漱石の「草枕」の冒頭を思い出します。

「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」

人の世が住みにくいから、人に関わらず「独り」で生きる。まちの中で「独り」生きる。

格好いいじゃないですか!!

と思うのは私だけかもしれません。カッコよくなんて全くないんですよ。

人は、「独り」で生きていけません。寂しさに押しつぶされてしまうのは自明の理。

気楽というのもつかの間、やはり人恋しい、寂しいと感じるのが世の人のつねひごろ。

私には、かつて家族がいました。
が、今はおふくろとの京暮らし。

いろいろなことに興味を持とうとしましたが、しょせんは現実からの逃避なのです。

ただ、久々に会う息子は、どんどん成長してたくましく感じています。もう、私より背も高くなり頼もしいと感じています。

「絆」とはいいますが、息子は息子、父は父、これは切っても切れない縁。

しんどい時、寂しい時、しかしこの子には、あんまり弱いとこ見せんとこ、私にも親心があるようです。

ちょっと、視点を戻して、数年前でしょうか、あるお医者さんと話した時、

「「人間」って、「ひとのあいだ」って書くでしょう。人は人の中に入らないとダメですよ。意地張っても、しんどいだけ」と言われたこともありました。

「京まちなか独り」、自分で自分にイケズしてんと「ひとのあいだ」に入ってみようと今は思っています。