元禄歌舞伎、近松門左衛門「傾城壬生大念仏」の座本役者の死

元禄16年、京都の歌舞伎役者、古今新左衛門が妻の幽霊にとり殺される

江戸時代の説話集『新著聞集』にこんな話が載っています。

古今新左衛門という歌舞伎役者はもと江戸の人で、妻子を連れて京都に引っ越してきていた。ところがこの人、遊女に溺れて、子が三人もいる妻を離縁してしまい、妻は深く恨みながら亡くなった

さてこの新左衛門は大坂へ引っ越そうと準備し、同職の者を先に行かせたが、その者が伏見から大坂へくだる船に、例の死んだはずの妻が乗っていた

「・・・然るに元禄十六年八月中旬、新左衛門、大坂へ引越んとて用意し、先立て同職の者、伏見の、のり合に乗下りしに、かの妻も同船しけり。その者も、死せし人のありしは、いとふしぎと思ひながら、なにか物語し、やがて大坂につかんと覚しき時、件(くだん)のすがた、いづちへか消え失せし、余の同船の者も、共に手をうち、肝をひやしけり・・・」(新著聞集 冤魂篇第12)

同職の人間は、死んだはずの女が居るのは不思議だと思いながら、その妻と言葉を交わします。そして大坂に着こうとする時、妻の姿はかき消えていました。ともかく新左衛門に知らせようと同職が京に引き返すと、ちょうど亡霊が現れたその時刻、新左衛門は高熱を発し、程なく死んだ、と話は結ばれています。

妻を裏切った男がその霊に殺されるのは珍しい話でなく、同書に類話も載っています。少しひっかかるのは、これが「元禄十六年八月中旬」のことと特定されている点でしょうか。

近松歌舞伎で座本をつとめた古今新左衛門は元禄以後も生きていた

古今新左衛門、実在の歌舞伎役者です。古今節という歌謡の創始者で、舞台で演じながら古今節を歌い、当時なかなかの評判だったようです。元禄12年『はやり歌古今集』を刊行、当時の歌謡集『落葉集』などにもとりあげられています。なお、日本国語大辞典によれば、寛文10(1670)年生まれの享保5(1720)年没。元禄16年(1703)年から17年間生きています。

江戸時代 夫に裏切られた幽霊の姿

ちなみにこの幽霊譚の前年である元禄15(1702)年、古今新左衛門は京都の歌舞伎界でかなりの脚光を浴びていました。この年の大当たりは、近松門左衛門の「傾城壬生大念仏(けいせいみぶだいねんぶつ)」。主役は大スター、坂田藤十郎。壬生寺の地蔵菩薩開帳に合わせた作品で、藤十郎得意のやつし芸と傾城事を存分に見せて、其の後日、三の後日と続編がつくられる大ヒット作品になりました。  

この「傾城壬生大念仏」及び続編の座本(興行師)をつとめたのが、古今新左衛門です。役者としても、わが子を探す女が乗る舟の渡し守を演じ、古今節を歌う「隅田川」的な見せ場を貰っています。

元禄時代、上方、特に京都の歌舞伎の黄金期を作ったとされる近松と藤十郎ですが、両者がタッグを組んだのは元禄15年、この「傾城壬生大念仏」とその続編が最後となりました。藤十郎が体調を崩した話もあり、何より翌年の元禄16年5月、近松は大坂・竹本座で「曽根崎心中」を発表し、人形浄瑠璃の分野で新境地をひらくのです。

そうした元禄16年の8月という時期、古今新左衛門が京から大坂に引っ越そうと考え、しかしそれを果たせなかった、と『新著聞集』の幽霊譚は語っています。 

江戸から京都についてきた妻が、死後も大坂へついてゆくため現れる。その展開は、彼の大坂行きが一時的な移動でなく拠点変更の予定だったことを裏書きしているようです。

そう、この話の軸は、彼の拠点変更なのです。新興地大坂の勢いもさることながら、京都で何かトラブルがあったのでしょうか。なぜこの時期彼が死んだという話が残るのでしょうか。 

元禄16年8月中旬、古今新左衛門に何があったのか 

元禄16年8月中旬、古今新左衛門に何があったのか。『新著聞集』は寛延2年(1749)成立で、これに影響した『続著聞集』にはこの話は載っておりません。  

誰かの、或いは皆の、彼に対する薄暗い処罰の感情がこんなふうに浮かび上がってきたのでしょうか。皆さんはどうお思いになりますか?

この記事を書いた人
入江 澪