神護寺の北条政子の書状を読み、子を失うことから鎌倉を考える

神護寺に残る北条政子の書状は娘を亡くした母の悲嘆を伝える

若き日の北条政子
若き日の政子

「御文たしかにうけたまはり候ぬ

もとさ候まじきことならばこそハ、世中ならひに候

おどろくべからぬことに候

かやうの事の候へバこそ、心もよくもなることに候へ

いたくおもふこと候はぬも、かへりておそれあることに候

仏道のなれといのることばかりこそ候べく候へ

はゝがなげきはあさからぬことに候

なぐさむべしともみえ候はぬ あやうきほどに候

                   七月二十五日」

(お手紙確かに承りました。

もともとそうあるはずのないことならば、これも世のならいでございます。

おどろくことでもございません。

このようなことがございますからこそ、心も善くなることでございます。

あまりものを思うことがございませんのも、かえって恐れあることでございます

仏道成就を祈るばかりでございます。

母の嘆きというものは浅からぬことでございます。

この悲しみは慰むことができるとも見えません。危ういほどでございます)

京都・高雄の神護寺に残る一通の書状には、我が子を亡くした母親の心情が切々とつづられています。

書いたのは鎌倉幕府初代将軍源頼朝の妻、北条政子

建久8(1197)年、長女の大姫を亡くした後のもので、

こういうことがあるから心も善くなると前を向きながら、それでもこの嘆きはあまりにも深く、危ういほどであると記しています。 

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政子の女人往生への関心がみえる天野の地の御影堂建立

天野山金剛寺 御影堂
天野山金剛寺 御影堂

政子が女人往生に関心があったことは女人往生を説く法然上人との交流、高野山の麓天野の御影堂建立などからも窺うことができます。

「是れいわゆる山上大師拝参は女人制止のゆえ以て往きて直ちに拝礼せずを恨みとなす。

仍つて今、末世の女性を憐れみ、結縁の為かくのごとし」(『高野春秋』 原文は漢文) 

天野は女人禁制の高野山に息子や親族を入れた女たちが多数住んだ地で、政子はその女たちの結縁のため御影堂を建てたというのです。

建久10(1199)年次女乙姫の病死、元久元(1204)年頼家暗殺、健保7(1219)年実朝の死。

大姫のあとも政子は次々に我が子を亡くし続けます。

さまざまな祈願と供養、二度の熊野詣、誅殺された者の遺族の庇護などがそこに挟まれます。

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神護寺と平家断絶そして鎌倉 ~奪い奪われつづける子供たちの命

紅葉の名所としても名高い神護寺は平安時代の創建で、文覚上人によって再興されました。

周知のとおり文覚は流人時代の頼朝に挙兵をすすめた怪僧で、神護寺には源家と縁の深い品や逸話が残されています。

壇ノ浦で平氏が滅んだあと、頼朝はその子供たちを草の根を分けて探し誅殺しました。

かつて平氏に助命されながら平氏を滅ぼした頼朝は、自身の体験から敵の子を生かしておくのが大きな禍根であることを知っていました。  

平家の嫡流平維盛の遺児六代も捕らえられます。

「母うへ、めのとの女房、天にあふぎ地にふしてもだへこがれ給ひけり。

此の日比(ひごろ)平家の子どもとりあつめて、水に入るるもあり、土にうづむもあり、おしころし、さしころし、さまざまにすと聞こゆれば、我が子は何としてか失はんずらん。少しおとなしければ、頸をこそ斬らんずらめ」(『平家物語』巻十二 六代)

六代の母や乳母は悶え嘆きます。我が子はどうやって殺されるのだろう、少しおとなびているから首を斬るのだろう。

鎌倉と縁の深い文覚に頼って六代は神護寺で僧となりますが、文覚が後鳥羽から流罪に処された後、再び捕らえられてついに殺されました。

「それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ」と『平家物語』は結んでいます。

敵だけではなくその子を殺す、子供を殺さねば自分たちは持ちこたえることができないという認識は、

周囲の者にも新しい時代の歩みにもどれほど陰鬱な暗さを投げかけたことでしょうか。

その陰惨さとともに、我が子を失い続けた政子の苦悩を思うとき、女人往生への希求はより一層哀切に響きわたってくるようです。

北条政子の墓(寿福寺)
政子の墓(寿福寺)

この記事を書いた人
入江 澪

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