鬼と言われようとも~土方歳三と現代のリーダーを比較する~
鬼の副長、土方歳三
新選組が屯所としていた壬生(みぶ)まで自転車で15分ほどでしょうか、三条会商店街に行くついでにほんの少し足を延ばすことがあります。
気持ちとしては、観光を目的として意を決してというようなことではなく、極めてふだんの生活に溶け込んでいるぶらり散歩の感覚となります。
壬生近くに行きますとたいてい八木邸の前を通り、「誠」の旗をぼんやり眺めて、お向いの前川邸の前を通り帰ることにしています。
激動の時代として幕末・維新に関心を持ち始めて、新選組に興味が湧き、特に土方歳三に注目しました。
当時撮影された写真は、よくご存じだと思いますが、これがなかなかの男前で上七軒や祇園でモテにモテたそうですが納得のいく容姿でした。
それよりも、「鬼の副長」といわれた生き方に魅かれ、さまざまな古写真や書籍を漁り、実際に壬生に行ったり島原に行ったり、また箱館(函館)まで歩を進めることでその足跡を訪ねてどのような人柄だったのか想定することに面白味を感じていました。
新選組のリーダーといえば、近藤勇なのですが、実質的なリーダーは土方だったと考えられます。
近藤は、新選組局長という権威であり象徴なのですが、決して表に出ることなく裏方に専念し新選組を大きく動かしていたのは土方でした。
それも組織を強くするための徹底した実務と手腕は、恐怖を感じるほどで、なるほど鬼と言われても全く差支えが無い力量だったと考えられます。
「局中法度」は、鬼の手腕の一つと感じています。
「右条々相背候者切腹申付ベク候也」、そこまでやるかという感覚ですが、土方は鬼になってこれを貫き通したのです。
局中法度
一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者切腹申付ベク候也
(広告)総理の品格
視点を現代に置き換えて、このコロナ禍の中で、日本のリーダーは?となるとやはり総理大臣でしょう。菅さんと前任者の安倍さんに着目してみようと思います。
総理大臣は、新選組局長、副長のような権威や裏方としての実質的なリーダーのような存在ではなく明確で唯一のリーダーです。
政治的なことやイデオロギーをお示しするのではありません。右や左の話でもありません。
一度土方と比べてみようと考えたまでにすぎません。
考えるに総理大臣という職務は、国民の期待や反発を背負いながら、またメディアからの強い圧力など、ストレスを感じるどころではないと思います。
官房長官の際や総理就任間際の菅さんは、なかなかの頑固さと政治家としての意地というか凄みのようなものが感じられて、確かに期待度は高いと感じました。
つまり「鬼と言われようとも」という土方と共通するような気魄が感じられました。
現在は、少し当初の印象より柔らかくなって、凄みが薄れているようで、またもともと少し地味な人と感じています。
安倍さんは、容姿も良くどことなく華があって人気が高いのは納得できるとは感じていました。
土方も男前で、鬼の中に華があるように感じていました。
ただ安倍さんも、総理大臣に就任する随分前ですが、鬼とまでいかなくてもさすがにタカ派の政治家としての凄みがありました。
それでは、菅さんや安倍さんが土方のように鬼になって日本を引っ張ろうとしているか、またはその決意があるのかというと、ひいきでもなく、種々ご批判がおありだと思いますが、これは紛れもなくあると感じています。
鬼と言われようとも土方が新選組を引っ張ったように菅さんや安倍さんも、鬼になってでも日本を引っ張ろうとしている、これは時代に関わることなくリーダーとして共通していることだと思います。
先の記事で新選組を滅びの美学と示しましたが、土方は決して負けるとは意識していなかったでしょう。
鳥羽伏見から箱館まで幕府に身を捧げる人生でしたが、現代の私たちからすると、これがまたカッコイイとなるのです。
極端となってしまいますが、リーダーたる人は、カッコイイが必要なのです。
組織を牽引していくリーダーは、鬼と言われようとも組織を護り、維持し、未来へ継承していくという覚悟を持ち合わせていないといけないとも感じています。
今回、鬼ばかりにこだわりましたが、最後に土方の逸話とともにもう一つリーダーたる人が持ち合わせている人が持つ本来の「優しさ」を紹介して筆を置きます。
箱館で死と隣り合わせの戦中、ある日土方は戦う部下の兵士たちに「一杯だけですまないが」と酒を一人ずつふるまい労ったといいます。
ただ、強いばかりだけではない鬼の顔に一瞬垣間見せる作為ではない、人柄から自然に表れる仏の顔、おそらくこれが人を魅了するリーダーなのだと信じています。
壬生寺に【新選組160年記念 土方歳三像】の建立が完了しました。
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